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半見世のありじごく
日本堤から吉原大門へ抜け、通りの廓に差しこむ風が、ひゅうと乾いた音を立てた。
やれやれ、まだ長月だってぇのに。
すががきが鳴った途端、この寒さじゃ身がもたないよねぇ。
半籬の向うでは襟をはだけ、胸元を覗かせた遊女達がやり手婆に聞こえぬよう、小声で愚痴をこぼし合う。
文政九年(1826年)九月、お江戸の夏は例年になく足早に過ぎ、吹く風もやたらと冷たかった。
空、暮れなずむ暮れ六つ。
中級以下の格に甘んじる廓では、遊女達が半見世と称す通り沿いの小部屋に詰め、格子越しの客引きを始めている。
その手管は様々だ。
ちらりと肌を見せるは、ほんの序の口。
多彩な簪を何本も挿して奇抜な見掛けを作ったり、流し目に凝ってみたり、道行く男の袖を鷲掴みにする猛者もいる。
序列に合わせ、それぞれの座る位置は大体決まっているが、揚屋町西河岸の角にあるここ峯屋は散茶以下の格付けのみ。大夫、格子と呼ばれる別格がいない。
昔ながらの遊郭とは若干異なる形と言えよう。
しかし、そのような店は峯屋だけではない。今や吉原に軒を連ねる中堅以下の廓は、大方が太夫を置いていないのだ。
なにしろ徳川の治世は既に二百年の長きに及んでいる。
もともと参勤交代の制度に合わせ、各地から大名に随伴して江戸を訪れる侍達を想定していた筈の仕組みも、あちこちガタがきていた。
武士の暮らしに奉仕する程度の役割でしかなかった町人は増加の一途を辿り、一部の豪商は武士以上の羽振りを効かせて、江戸文化の主役に躍り出ている。
その勢いに呑まれる形で、やたらと敷居の高かった吉原も徐々に変化せざるを得ず、廓の仕来りは少なからず緩んでいる。
大掛かりな改革が行われる度、場末の湯女、長屋女郎の類が吉原へ集められ、安っぽく春をひさぐのも一因であろう。
廓言葉は過去の遺物。廓から揚屋へ向う花魁道中など、滅多に行われなくなっている。
峯屋もまた格式に拘らない中店だった。
今、一番の売れっ子は半見世の奥に陣取る涼香と朝霧で、二人とも散茶。
散茶とは振らずに立てる安物の茶から来た呼名であり、通う客を選ばず「ふらない」のが建前である。庶民に手の届く敷居の低さ、馴染みやすさが受け、時には大店の大夫より市井の人気を集めている。
まだ齢十八の涼香も、そんな売れっ妓の一人である。
峯屋での立場は他の者と一線を画し、揚げ代も割高だ。
精々金三分に留まるのが散茶の相場なのに、涼香と朝霧は一両出さなきゃ呼べない。
金持ちの馴染みを抱える故の特権であり、実質的には限りなく大夫に近い扱いを受けていたのだ。
だから、峯屋の看板として半見世に顔を出しているものの、通りすがりの客へ媚びる必要など無い。
鷹揚に、のんびりと。
いや、涼香の場合、もっと呑気だ。
ぼうっとしたまま、何処か眠たげな眼差しを格子の外へ向けている。
どうせ、そろそろ常連の常盤屋が来る頃。そうなりゃすぐに呼び出され、一晩中、つきっきりで……
涼香が今夜の段取りを曖昧に胸へ描く内、右隣の朝霧が肘の先を押し当てて来た。
「ねぇ、見な、アリジゴクがいる」
「ありじごく?」
きょとんと涼香が横を向くと、朝霧が小さく顎をしゃくって見せる。
その方角、おはぐろどぶと呼ばれる用水路を背にし、柳に隠れる様に立つ大柄な男の影があった。
「あの冷やかし野郎、あたいの里の砂ん中で見かけた奴と良く似てる」
「……それ、虫の名前よね?」
「あんた、アリジゴクを見た事無いのかい。ほら、寺の軒下とかで」
涼香は首を横に振った。
元は房総の百姓の出の朝霧に対し、涼香の親は落ちぶれたと言えど武士だ。
積る借金のかたに親が彼女を峯屋へ売り飛ばすまで慎み深く育てられ、近在の子供と一緒に草叢や路地を駆けまわった経験に乏しい。
「ほら、寸胴でいかつくてさ、薄っぺらい両のまなこが底光りする感じ、いかにも虫っぽいだろ」
「ありじごくって薄目かしら」
「え」
「いつも砂の中にいる虫なら、目は付いていないかも?」
涼香の素朴な疑問を受け、困った朝霧は唇をとがらせた。
「あんた、例えってもんを知らないねェ」
「……たとえ? 何、それ?」
横目できっと睨んでみせても、そこに含まれる微かな苛立ちに気付きもせず、涼香はきょとんとしたまま、のんびり真延した声を出す。
朝霧はため息交じりに「ありじごく」へ視線を戻した。
「ま、どの道、あんな冷やかし、気にするのも馬鹿らしいけど」
「店に入る様子、ないしね」
「それでいてこの頃は毎晩来てる。で、あそこの柳の下に突っ立って、ず~っと格子の中を睨んでるのよ」
「いっそ朝霧さんの所へ上がれば良いのに」
「よしておくれ、気味が悪い」
「廓に上がれば客は客でしょ。それに、朝霧姉さんにぞっこんなら、ちょっと可哀想な気もするし」
「願い下げです、あんなトウヘンボク。それにきっと意中の相手はあんた」
「えっ!?」
涼香は目を丸くした。
男を魅了するのが遊女の生業とは言え、冷やかしの類は眼中に無く、半籬の内でも特に媚びを打った覚えがないから、てっきり朝霧目当てと思い込んでいたのだ。
「あたしの右肩の横、あいつの眼差しが何度も掠めたのさ。その先にいるのは、いつだってあんただもの」
では、ぼうっと気付かぬ内、自分は男に見られ続けていたのか?
可哀想と思うどころか、俄かに背筋が寒くなり、もう一度、男の方へ目を凝らすと、相手がふと顔を上げた。
真っ向から目が合う。ありじごくと呼ばれた薄く底光りする眼と。
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