恋する自転車スタンド

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 登校時に自分の自転車の乗り心地に違和感を感じていたが、下校時にはそれがはっきりとしてマサユキは自転車を降りた。後ろのタイヤを見ると、 「やっぱりか、くそー」  タイヤはパンクしていた。そのまま我慢して乗り続け、自分の家の近所にある自転車屋まで来た。  その自転車屋はかなり古くからあり、マサユキも子供のころからいつも修理はここで行っている。 「おう、いらっしゃい。どうした?」  店の中に入ると対応したのはおじいさんの方だった。歳は七十を超えるが、白髪を綺麗に角刈りにしていて、清潔感を感じさせた。客からはミチオさんと親しみを込めて呼ばれている。この店は親子二代で経営していて、いつもは主に息子の方が店番をしているのだが、この日は息子は店にいない様子だった。 「パンクしちゃって」  そう言ってマサユキは自分の自転車を店の中に引いて来た。 「浅田の息子だな。お父さんは元気か?」 「はあ、元気、だと思います」 「なんだ、はっきりしねえ返事だな」 「なんか最近帰るのが遅くて、余り顔を合わさないんです」 「仕事が忙しいのか」 「そうだと思います。でも父は仕事の事は家で話さないから…」 「そうか。…お前今、高校何年だ?」 「二年です」 「もうそんな歳か」  話している間に手際良くタイヤからチューブが出された。 「おう、ここだな」  パンクした個所を見つけたミチオは修理を始めた。作業はすぐに終わった。  修理が終わりマサユキがお金を払おうとすると、道夫はなぜか店の奥に引っ込んでしまった。しばらくすると手に何かを持って出て来た。 「おい、これ使ってみないか?」  持っていたのは自転車のスタンドだった。 「俺の手作りの試作品でな。好評なんだ」  ミチオは笑っている。 「いや、でも僕お金ないんで…」 「金はいいよ。レンタルだ。返すのも好きな時期でいい」 「はあ」 「これは『恋するスタンド』と言ってな。これを立てるときの音を自分の好きな子に聞かせると、その恋が叶うんだ」  急に変なことを言い出したので、マサユキは困ってしまった。返事に窮していると、 「まあ、だまされたと思ってやってみろ。付けるぞ」  そう言うとミチオは勝手にマサユキの自転車のスタンドを外し始めた。マサユキは断るタイミングを逸してしまった。  自転車のレンタルならよくあるけど、スタンドだけ?  それでもデザイン的にはほとんど変わらなく、返す時期もいつでもいいと言っていたので、まあいいかと思い、マサユキは黙ってミチオの作業を見ていた。 「出来たぞ、試しにやってみな」   手際よくスタンドを付け替えたミチオはマサユキに言った。マサユキは自分の自転車のハンドルを握り、足でスタンドを起こしてみた。ガシャン、という音と共にスタンドは立った。 「いい音だろ?」  ミチオは笑っている。少し古風な大袈裟な音を立てたが、確かに起こした時の音と感触は良かった。使い勝手は良い。しかしそれで恋がかなうとかは全く意味が分からなかった。 「まあ使ってみろ。お前彼女はいるのか?」 「いや…」  マサユキは正直に答えてしまった。 「じゃあ試しにやってみな。上手く行かなかったら、それはまあしょうがない」  そう言うとミチオは無邪気に笑った。その子どもの様な笑顔を見たら、マサユキは断れなくなってしまい、パンクの修理代を払って店を出た。  翌日の朝、学校に登校して来たマサユキは、校内の自転車置き場に自転車を置こうとした。その時一人の女子高生が彼の視界に入った。同じクラスのナオだ。彼女に密かに思いを寄せているマサユキは急に昨日の事を思い出し、馬鹿らしいとは思いながらも少し大きな音が出るように自転車のスタンドを立ててみた。その音は確かにナオに聞こえたと思う。しかし予想通り何も起こることはなく、彼女は何事もなかったように校舎の方へ歩いて行った。マサユキは素直にミチオの要求通りの行動をしてしまったことを大きく恥じた。それ以来スタンドの事は忘れてしまった。  それから数カ月を過ぎた時の事であった。マサユキが高校から帰って来て家に自転車を置くと、 「こんにちは」  挨拶をされた。振り向くと隣の家で一人暮らしをしているムツミが立っていた。マサユキが小さい頃に何度か遊んでもらった記憶もある、ずっとこの家に住み続けている高齢の女性だ。 「こんにちは」  返事をしたマサユキは久し振りにムツミに声を掛けられと思った。膝が悪いらしく、最近はほとんど外で見かけなくなっていた。 「元気?」 「あ、はい」 「学校は楽しい?」 「そうですね、まあ」 「そう」  会話は切れた。マサユキがお辞儀をして家に入ろうとすると、 「マサユキ君、最近自転車買ったの?」 「え?いや、べつに」 「あらそう。ごめんね、変なこと聞いて」  マサユキは再びお辞儀をして家の中へ消えた。ムツミは少し不思議そうな顔をしてマサユキの自転車をじっと見つめた。するとスタンドの部分だけが新品なことに気付いた。ムツミはそのまましばらく自転車を見つめていた。  家の中に入ったムツミは床に座って、痛くなった膝をさすりながら一人想いを馳せた。想像の中には高校生のムツミがいた。家に返って来る時、たまに夕刊を配る同年代の新聞配達の人と会った。乗っている自転車を置いてスタンドを上げる音、その音をムツミはよく覚えていた。ムツミはいつも学校から帰るとき、この音が聞こえては来ないかとドキドキしていた。淡い恋心だった。  最近その時と全く同じ音が隣の家から聞こえてくることが気になって仕方なかった。その新聞配達の人は近くの自転車屋さんの人だという事は当時親から聞いて、今でもよく覚えている。スタンドだけ新しいマサユキの自転車を見たとき、ムツミは確信した。 「彼も私のことを想ってくれていたんだ」  遠い記憶を辿り、胸の高まりを感じながらムツミはしばし幸せな時間に浸った。  一方でミチオも周到な準備をしていた。自分が元気なうちに、何とか自分の気持ちを彼女に伝えたかった。この年になって直接伝えるなんて出来ない。そんなミチオが考えたのが、自身が自転車屋であることを活かした、自作の自転車のスタンドを作り、その音で気持ちを伝えることだった。当時何度かムツミと短い会話したことがあった。その時彼女はその自転車のスタンドを立てる音が好きだ、と言っていたのをミチオは忘れなかった。  苦心の末、あの時と同じ音を出すスタンドは完成した。それから辛抱強く彼は待ち続けた。そしてようやくムツミの隣人であるマサユキがやって来たのだ。彼女は気付いてくれただろうか…。でもミチオにとって一番大事なのは自分の気持ちを伝えるその行動そのものだった。ミチオは自分の人生の大きなやり残しを終えた充実感があった。  翌日。マサユキは登校して、いつもの様に自転車置き場でスタンドを立てた。すると後ろから、 「おはよう」  と声がしたので、振り向くとマサユキが想いを寄せるナオだった。そして笑顔で小さく手を振って彼女はマサユキを通り過ぎた。  マサユキはミチオに利用されただけだった。でももしかするとミチオとムツミのふたりの想いがスタンドに力を与えたのかも知れない。マサユキは火照る体でナオの背中を追いかけて校舎へと走り出した。 終
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