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朱国宮城の陽豊門前の広場には、ざわざわと人々が集っていた。農民や商人など様々な者たちがいる。
その日の朝早くに宮城を占拠したという宣言がここ陽豊門でなされた。それについての説明があるという触れがあり、民が集まってきている。
前方にいる者たちは甚く興奮している。後方に固まっている者たちは一様に不安げな表情を浮かべていた。中にはすぐにでも逃げ出せるようにとそわそわしている者もいる。
突然銅鑼の音が鳴り響いた。
騒めいていた人々が口を閉じ、一斉に門の上に注目する。
満を持して陽豊門の上に現れたのは小柄な老人だった。
少し足を引きずるようにしてゆっくりと登場したその老人に、広場の前方に陣取った人々から歓声と拍手が起こった。手を高く上げて拍手をしている者たちの手首には黄色の布が巻かれている。
拍手の中、老人は厳かに右手を上げた。それと同時に広場は水を打ったように静まり返った。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」
老人から発せられた声は、その小柄な身体から出ているとは思えないほど朗々と響き渡った。
前方に集まっていた人々の中から、「黄翁様!」と声がかかった。
それに対して老人は、にこやかに微笑んで手を上げて応えた。
「ありがとうございます。ええ。拙老のことは黄翁とお呼びください」
そう言って黄翁は間を置くと、その眼下に広がる人の波を見渡し、続けた。
「今朝お知らせしましたように、私どもはこの朱国の宮城を制圧させていただきました。制圧、などと言うととても物騒ですが、明け渡してもらったと思ってください。……しかし、突然このような事態になったことに皆さんは驚いておられることでしょう。決して皆さんを傷つけるためではありません。しかし、皆さんを困惑させてしまったことをまずお詫びいたします」
そう言ってゆっくりと頭を下げた。
今度は広場後方に集っていた人々の間から騒めきが起こる。黄翁は騒めきが収まるのを待ち、再び口を開いた。
「この幡朱国は、后稷様の加護により豊かな農業国として栄えてきました。しかし、今や朱国は后稷様の加護を失い、不作や災害が続いています。加護を失ったのは前王である徳資ら范氏の専横が原因です。后稷神様は范氏には王を任せられないとお考えになったのです」
黄翁が憂いを帯びた声で続ける。
「それにも拘わらず、徳資の子の武恵は朱国の王を名乗り、自分たち王族の作ったツケを国民の皆さんに負わせようとしていました」
そうだ、と聴衆の前方から声が上がる。
「武恵は朱国を立て直すためと言いながら、未だ民の皆さんに苦しい生活を強いています。武恵の独りよがりの政策は、加護を失った国を救うどころかむしろ破滅へと向かわせているのです。……現に、朱国の北部では跂踵が現れました。ご存知の方もいらっしゃるでしょう。跂踵が現れるとその国に疫病が流行るといわれている怪鳥です」
後方にいた聴衆の動揺が広がる。
「跂踵は、たまたまその場に居合わせた拙老が力を尽くし追い払いました。しかし、跂踵が現れるなど、明らかに朱国が悪い方向へ向かっている証拠です」
黄翁は堪え難いと言った顔で声の調子を落とした。
「朱国は、徳資王のせいでこれまでのように豊富な農作物の収穫を得ることもできなくなっています。この国の大半を占める農業を生業とする皆さんの不安を察するに胸が痛みました。そこで、拙老の力など微々たるものであるとは承知しておりますが、皆さんのお手伝いをしながら、何とかこの朱国の皆さんのお役に立てないものかと、思い悩んでおりました」
静かな語り口ではあるが、後方の聴衆にもその声は届いた。
「そんなある夜、拙老の枕元に玉皇大帝がお出ましになり、おっしゃられたのです。朱国の民を救うように、と。そして私が目を覚ますと、その枕元にはこの石があったのです」
そう言って、黄翁は半透明の黄色の石を両手で掲げた。
「賜ったのは御璽でした。玉皇大帝がこの拙老に御璽をお預けくださったのです」
両手で石を頭上に捧げ持ったまま続ける。
「拙老は悩みました。この老いぼれた身で皆さんのお力になることができるのか。しかし、こんな老いぼれを慕ってくださるこの国の方々が励ましてくださいました。それで、決心いたしました」
そこで黄翁が大きく息を吸い、聴衆を見回した。黄翁を見上げる人々も息を飲んでそれを見守る。
「この朱国を堕落させた范一族には王の座を降りていただき、皆さんと共に、皆さんが安心して暮らすことができる新たな国を作ろうと!」
どよめきがあちこちで広がる。
「どうか皆さん、力を貸してください。再び神に護られた国を、一緒に新しい国を作りましょう!」
黄翁の自信に満ちた声に、広場の聴衆は歓声をあげた。後方で半信半疑で見守っていた人々もその熱気に呑まれる。
「黄翁様!」
老人の名を連呼する声が広場に響いた。
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「変わりないな……」
嗄れた声で呟いたのは、先ほどまで群衆の前で朗々と演説を行っていた黄翁だ。手には群衆の前で掲げた半透明の黄色の石がある。玉皇大帝から賜った御璽であると宣言したものだ。
「民たちの支持を得たというのに」
そう言いながら黄翁は石を袖で磨き、陽の光にかざしてみる。しかし燻んだ石は光を通してこない。
黄翁は傍に立つ男から小刀を受け取ると、左の中指の腹をぷつりと傷つけた。僅かな切り口から滲む血をその石になすりつける。そして目の前に置いた文書に石の血のついた面を押し付けた。
石を離した後の紙には僅かな赤い跡が残っていた。
黄翁はそれを確認すると、落胆の色を隠さず大きく溜息を吐いた。
「駄目ですか」
男が心配そうに聞くと、黄翁が頷き、手の中にある自らの血が僅かに付着した石をじっと見つめる。
「ならば次の手だな……」
黄翁は呟くと手にしていた石をそっと置いた。
”申黄国王之印”
石にはそう刻まれていた。
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ほんの少し月が顔を出す夜の闇の中、宮城で人目を忍ぶように移動する陰があった。
「武恵様、こちらへ」
徐景成があたりを警戒しながら、王妃を支えて歩く武恵を木の陰に促す。
「あの門から出ましょう」
木に隠れて宮城の西門の様子を窺う。門には見張りの姿は確認できない。
夜の闇は自分達を隠してくれるが敵も隠す。
景成は耳を澄まして気配を探った。人がいる様子はない。
「試しに私が先に行きます。もし私が捕まるようなことがあったら、構わず逃げてください」
景成が門を凝視しながら小声で言う。
「そんなことができるわけがないだろう……」
そう言った武恵を景成が振り返る。
「このまま朱国を見捨てるとおっしゃるのならば、どうぞそのように」
景成の言葉に武恵が黙る。それを見て景成が言葉を続ける。
「しかし朱国を守りたいのであれば、まず武恵様がご無事である必要があります。何を置いても外へ出てください。そして紅国に援軍を要請してください。武恵様からの要請がないと紅国も動くことができないでしょう。それに外へ出ればきっと兄とも連絡が取れるはずです」
言いながら景成は、ここに兄の勇亮が居ないことの心許なさを痛感していた。
禁軍将軍の勇亮は、広北県の役所が賊に襲われたと知らせを受けて鎮圧に向かった。宮城の襲撃はその不在を承知の上で行われたのだろう。
景成は奥歯を噛み締めた。
隣国からの支援を当てにして軍をぎりぎりまで減らした判断が甘かったことを悔いる。
しかし、景成は頭を振り、今は後悔に浸る時ではない、と悔恨の念を振り払う。
「では行きます。私が合図をしたら来てください」
そう言うと、景成は闇以外に遮るもののない中、門へと向かった。
門扉にたどり着いたが敵が出てくる気配はない。
景成は震える手で脇門の閂を外した。
門扉を引くと、ぎぎぎと軋む音を立てた。その音にびくりとして振り返って辺りを見回す。しかし誰も駆けつける様子はなかった。
僅かに開いた隙間から恐る恐る門の外を覗き、外にも見張りがいないのを確認する。
そして再度耳を澄まし、周囲を見まわすと、武恵に手を上げて合図をした。
武恵が王妃を抱えながら門へと走り寄る。
景成は武恵と王妃を先に脇門から外へ出すと、自らも出て扉を閉めた。
「武恵様!」
門から出ると、聞き覚えのある声が景成の耳に届いた。
声の方へ視線を走らせる。
「兄上」
こちらへ駆け寄るのは、景成がその存在を切望した勇亮だった。
宮城占拠を知って戻って来たのだろう。
勇亮が武恵と王妃を支える。
「こちらへ」
見れば勇亮だけでなく、その部下たちもいた。
*
景成たちは西門から離れ、宮城が黄朋に占拠されたことを受けて寧豊から避難して行ったと思われる空き家に一旦身を隠すことにした。
「一体どうなってるんだ」
武恵と王妃を座らせて落ち着かせると、勇亮が景成に聞いた。
勇亮たちは、北に向かう途中、宮城占拠の報を聞いて急ぎ引き返した。そして夜を待って最も見張りの薄かった西門から宮城へ侵入しようと様子を窺っていたところだったという。
「それがさっぱりわからないんです」
景成が苦しげに答えた。
昨夜、景成は最近ずっとそうであるように、家に帰る時間を惜しんで外廷に留まり、業務の処理をしていた。夜も更け、うとうととしかけたところ、普段は静まり返っている深夜の宮城で何やら物音を聞いた気がした。
建物の外へ出て内廷への門が開いたままになっているのを見るや、嫌な予感に襲われ武恵の私室に駆けつけた。すると、ちょうど武恵と妃が見知らぬ者に連れて行かれるところだった。
武恵を守るはずの護衛の兵たちは、無残な姿で倒れていた。
景成は咄嗟に隠れて武恵の元に駆け寄るのを堪えた。
禁軍の精鋭が敵わない者を相手に飛び出したところで、武芸の心得のない自分が返り討ちにあうのは目に見えている。武恵がその場で弑される様子はなかったため、そのまま隠れて後を追うことにした。
景成は武恵が牢に入れられたのを確認すると、身を隠してじっと救出できる機会を待った。しかしなかなか見張りはその場を離れなかった。
黄翁とやらが陽豊門の上で勝手な演説をしているのを遠くに聞き、腑が煮え繰り返るのを覚えながらも、耐えてその機を探った。
そしてようやくその時が訪れた。武恵を見張っていた者が男に呼ばれてその場を離れた。
景成はその隙に武恵と王妃を連れ出し、逃げたのが発覚する前にと最も近くの門へ急いだ。追っ手を恐れたが、予想に反して誰にも会うことなく外へ出ることができた。
「逃げる途中、全く誰とも会わなかったとは……却って不審だな……」
勇亮が顔をしかめる。
「そうなんです。おそらく宮城に押し入った人数は元々それほど多くないと思いますが、それにしても、まるで逃げてくれと言わんばかりに誰とも出くわさなかったんです……。それに武恵様が閉じ込められていた牢の錠前も何故かすぐに外れました」
景成が改めて思い出しながら呟く。
「陛下、襲われた時のことをお教えいただけますか」
勇亮が聞くと、武恵が青い顔で首を振る。
「私にも何が何だかわからないんだ。部屋の外にいた護衛の者たちが襲われたのにも気が付かなかったくらいだ……」
武恵に肩を抱かれながら震えている王妃も、真っ青な顔で頷く。
「宮城に留まっていた禁軍の兵士たちは、数が少ないとはいえ精鋭揃いのはずです。それが易々とやられて全滅させられたということですか……」
勇亮が無念の表情を浮かべ瞑目する。景成はそれを見て唇を噛むと、改めて武恵を真っ直ぐに見た。
「陛下、一刻も早く紅国へ援軍を要請しましょう」
景成が言うと、武恵は苦しそうな顔で頷いた。
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