二年孟秋 寒蟬鳴く

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 少しすると、ぽつぽつと民家が見えてきた。そのうちの比較的大きな農家まで来ると、忠全が馬を降りた。家の脇の木には毛並みの良い栗毛の馬が繋がれている。月季の馬なのだろう。  忠全が戸口で声をかけると、その家の主人と妻らしき老夫婦がおろおろとしながら出て来た。 「すみません。お世話をかけました。……連れ……の具合はどうでしょうか」  忠全が聞く。月季の身分は明かしていないようだ。 「今は眠っておいでのようですが……」  そう言って忠全を中へ迎えようとした老夫人の顔が不意に強張った。忠全の後ろの暗闇に、兜帽(ずきん)で顔が見えない体格の良い男を見つけたからだ。  忠全がそれに気づいて安心させるように老婦人に頷く。 「大丈夫です。この方は……信頼できる身元のしっかりした方です」  まさかあなたの国の王ですとも言えず言葉を濁すと、老夫婦はぎこちなく壮哲に頭を下げた。 「世話をかけてすまない。預かってもらっている病人の知り合いだ」  壮哲ができるだけ穏やかな声をかけると、老夫婦は警戒しながらも、どうぞ、と三人を家の中へ迎え入れた。  月季は入口から近い部屋で、薄い夜具の上に身体を丸くして横たわっていた。具合が悪いとは聞いていたが、実際にその姿を目にして壮哲の歩幅が大きくなる。 「大丈夫か?」  枕元に屈んで壮哲が声をかけると、月季がゆっくりと顔を上げた。  呼び掛けたのが壮哲だと気付いたようで、左腕を庇いながら上体を起こそうとする。 「ああ、無理に起きなくていい」  壮哲はそう言ったが、月季はそのままのろのろと起き上がって不思議そうに壮哲を見た。 「……どうしているの……?」  血の気のない顔で酷く怠そうに目をしぱしぱさせている。いつもの月季らしくない無防備な顔だ。  琥珀色の瞳を見てとりあえず月季の無事を確認すると、壮哲は安堵の息を吐く。 「迎えに来た。忠全が知らせてくれた」  月季はぼんやりとしたまま視線を壮哲の横に移した。そこにいるのが忠全だと気付くと、それまで重そうにゆらゆらとしていた月季の長い睫毛がぴくりとしてしっかり持ち上がった。そして睫毛の下から覗く琥珀色の瞳に緊張が宿る。  月季は眉を顰めて忠全を睨んだ。 「……先に……戻りなさいと言ったじゃないの……」  掠れた声で忠全を叱責する。 「申し訳ありません。……でも……こんな状態の貴女様をこのままにして行けません……」 「少し休んでから追いかけると言ったでしょう。お前を信頼して書状を預けたのよ。その任務を最優先させなさい」  部屋の入口で不安そうに成り行きを見ている老夫婦を気にしながら月季が低い小声で言うと、忠全が泣きそうな顔をして助けを求めるように壮哲を見た。  やりとりを見ていた壮哲が忠全から月季に視線を移す。 「……急ぎの用なのか」  月季が頷く。恐らく忠全に預けた書状というのは朱国でのことだろう、と察するが、月季は何の用なのか答えようとはしない。 「私には話せないことか」  壮哲が聞くと、月季がふるふると小さく首を振った。 「……壮……貴方にも……知らせようと思ってた」  ここで話すべきことではないのだろう。月季が、後で、と眉根を寄せたまま壮哲を見る。  壮哲は頷くと忠全に向き直った。 「……彼女は私が責任を持って預ろう。事情は本人から聞く」 「ですが……」  壮哲の言葉にも忠全は出かけるのを躊躇している。 「言うことを聞かないのなら……ここで解雇よ」  月季が苛立ちを含んだ低い声で言う。  壮哲は、月季が上体を起こすためについている右腕が僅かに震えているのに気付いていた。話す時に息が乱れないよう相当気を使っていることにも。  忠全を先に行かせようと気丈な振りをしているのだろうが、恐らくそれもそろそろ限界だろう。 「忠全」  壮哲が静かな声で忠全を呼ぶ。声の調子が変わったことにぎくりとして忠全が恐る恐る視線を向けると、有無を言わせない縹色の瞳と出会った。  その瞳を見て忠全は、わざわざ王自らが自分の頼みを聞いてここまで来てくれていることを改めて思い出す。  忠全は身をすくめて立ち上がり何度も謝ると、「すぐにお迎えに戻って来ますので何卒よろしくお願いいたします」との言葉を残して出て行った。  馬の蹄の音が遠ざかるのを確認すると、月季の自分を支えていた右腕から力が抜け、身体が傾いた。壮哲がそれを受け止める。 「すごい熱だぞ」  支えながら指の背で月季の頬に触れた。  普段の月季にそんなことをすれば手を(はた)かれそうだが、月季は酷く眠そうに瞬きをするだけだった。 「動けるか?」  壮哲が聞くと、月季が頷いた。  月季はのろのろと壮哲の手に掴まって立ち上がった。  しかし歩こうとしてもふらついて足取りがおぼつかない。  壮哲は、困ったように首を摩り、ううむ、と唸ると、 「暴れるなよ」  そう一言断って月季を抱え上げた。 「な……」  月季が驚いて反射的に逃れようと身を捻るが、壮哲はかえってしっかり月季を抱えて顔をしかめた。 「我慢しろ」  言われた月季は口惜しげな目で壮哲を見ると、目を閉じて観念したように力を抜いた。どのみち大した抵抗はできないと悟ったようだ。  壮哲は月季が大人しくなったのを確認すると、老夫婦に礼を言って外へ出た。心配そうに見送る老夫婦に、佑崔も頭を下げて丁寧に礼を言う。  壮哲の馬まで来ると、月季が僅かに目をあけて、あそこに、と木に繋いである栗毛の馬を指差した。 「まさか一人で乗っていくつもりじゃないだろうな?」 「だって……」  月季が眉を下げる。 「月季殿の馬は佑崔に連れてきてもらうから心配するな」  壮哲が言うと月季は細く息を吐いて情けなさそうに渋々頷いた。壮哲は苦笑いすると、月季を自分の馬に乗せた。馬の背に押し上げられた月季は身体に上手く力を入れられないのか、くたりと馬の首に弱々しくしがみついた。 「ちょっとじっとしてろよ」  そう言って壮哲も馬に跨ると、月季の身体を起こして抱えるように手綱を持つ。  しかし馬が動き始めると、月季の身体の位置も安定せず、どうにも辛そうに見える。 「大丈夫か?」  壮哲が馬を止めて聞くと、月季が前屈みになり、ぼそりと言った。 「……痛いし……寒い……」  並足で穏やかに馬を進めてはいたが、怪我をした月季の左腕がどうしても手綱を持つ壮哲の腕に当たるようだ。それに熱のせいだろう、外気は低くないのに身体が震えている。 「……そうか……。……そうだな。……じゃあ、少し我慢しろよ」  そう言うと、壮哲は月季を持ち上げて右向きに横座りさせ、自分の羽織っていた外衣を脱いで月季を(くる)んだ。  外衣に(くる)まれて荷物のように(まと)まった月季を壮哲は懐にいだくように抱えた。 「嫌かもしれないが、しばらく大人しくしててくれ。暴れると落としそうだ」  されるがままでくったりしている月季に言うと、月季は一瞬眉を顰めたが、怠そうに目を瞑り壮哲にもたれ掛かった。  壮哲は出来るだけ振動を作らないよう馬を進めて采陽へと向かった。  朱翡門に着くと、門上で待ってる昊尚が見えた。壮哲が昊尚に手を上げて合図をすると、重い門扉がわずかに開いた。  中へ馬を進めると、昊尚が門から降りてきた。そして馬上でぐったりとしている月季を見て顔色を変える。 「太医署に連れて行く」  壮哲は昊尚に言うと、そのまま宮城へ向かった。    太医署に着くと、馬から月季を抱えて下ろし、そのまま壮哲自ら運び込んだ。昊尚も壮哲の後に続く。 「すまん。急患だ」  壮哲の声に驚いて出てきた医官が月季を見て眉を上げる。 「……顔色が良くないですね……」  医官に促されて処置台へ月季を下ろす。 「……土螻の角で腕を怪我したようなんだが……」  医官は、失礼します、と言って月季の袖を捲り上げ、左腕に巻かれた布を取り去った。  月季の左腕を見て首を傾げる。 「傷自体は大きくないですね。ちゃんと傷口は応急処置もしてあるようですが……再度傷口の処置をします」  そう言いながら、腕の傷を水で丁寧に洗い、更に酒で消毒した。傷口には化膿止めの軟膏を塗って再び包帯を巻き直した。  処置を終えて寝台に移された月季を見ながら、医官が悩ましげに唸る。 「土螻の角には通常毒が含まれているとは聞きませんが、念の為解毒剤を処方した方が良いかもしれません。……しかし、何が良いのか……。申し訳ありません。少し調べさせてください……」 「そうか……。出来るだけ急いでくれ」  壮哲が医官に言う。すると壮哲の袍が引っ張られた。  見ると月季が壮哲の袍を弱々しく掴んでいた。何かを伝えようとしているようだ。 「ん?」  壮哲が耳を寄せる。 「……さっき……飲んだ」  月季が掠れた声で言った。 「……文始……先生の……」 「文始先生の……?」  壮哲が聞くと、昊尚が後を引き取る。 「文始先生の万能毒消しを飲んだのか?」  月季が不快さに耐えるように目を瞑ったまま小さく頷くと、昊尚が、そうか、とほっとした顔を見せた。 「月季も文始先生の万能毒消しを持っていたようです。それを飲んだということなので、毒に関してはおそらく心配ないかと。何せ黯禺の毒にも効きますから。ただし、毒と反応するようで酷く熱が出ます。今のこの熱もそのせいかもしれません。だとしたら、今夜はこのまま安静にするしかないでしょう」  かつて同じ薬を飲んだことのある昊尚の言葉に、壮哲も胸を撫で下ろす。  昊尚が改めて医官に文始先生の万能毒消について説明をするのを聞きながら、壮哲は真っ白な顔でうとうととしている月季を見た。まだ壮哲の袍を掴んだままの白い手が目に入る。 「詳しい事情を聞くのは月季が目覚めてからですね」  医官に説明を終えた昊尚が、月季を見つめる壮哲に声をかけた。 「……そうだな……」  月季が、壮哲にも伝えないといけない、と言っていたことが気にはなる。  しかしこの状態では話を聞くことは無理だろう。  そう思いながら、袍を掴んでいる月季の手を(ほど)いて夜具に入れると、月季の長い睫毛が重そうに持ち上がった。琥珀色の瞳が何かを言いたげに壮哲へ向けられる。 「どうした?」  壮哲が問いかけると、月季が絞り出すように言った。 「……黄翁は……受叔、だった……。狍鴞(ほうきょう)とか……黯禺……いる……。……気をつけて……」  そこまで口にすると、睫毛の重さにも耐えきれないかのように瞼が下りた。
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