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紅国王の執務室に皇太子の大雅が入ると、この部屋の主である慧喬が手にしていた書類を置いて顔を上げた。
「ご苦労であった」
その言葉に大雅は一礼すると、口を開いた。
「謐の郷の状態については、先に月季が済ませておりますので、それは割愛して報告いたします」
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大雅と月季が文始先生を伴い、少数の兵士を連れて謐の郷に着くと、先に来ていた郭文陽が出迎えた。
「遠いところをありがとうございます。……文始先生にまでご足労をおかけして申し訳ございません」
文陽が恐縮しながらも、心強い援軍が現れたことに緊張していた面持ちを緩めて言うと、文始先生は鷹揚に笑った。
「手のかかる弟子に頼み込まれてな」
大雅が助力を求めに庵を訪れると、文始先生はいつものごとく表面上は毒舌を吐きながら、快く同行に応じてくれた。
「あれから土螻は出ていません。警戒を強化して見回っていますが、姿も見かけていません」
文陽が現状を報告する。土螻は夜に現れたため、謐の郷では若者たちが交代で寝ずの番をしているという。
大雅は文陽に頷くと、月季に指示を出した。
「月季達は郷を警備しつつ、もう少し周辺の様子を見ておいて。ああ、だけどあまり玄海に踏み入っちゃ駄目だよ。奥の方は私と文始先生で調べてみるから」
玄海を探索する上で最も懸念されるのは、黯禺に遭遇することだ。黯禺は猴に似た頭部を持たない魔物だ。目も耳もないが、思考を読み取ることによって獲物の存在を認識し、自分にはない頭部を狙って鋭い爪で襲ってくる。
謐の郷は玄海の端に位置しており、今まで黯禺が周辺に現れたことはない。黯禺は玄海の深部に棲息しているからだ。
しかし今回、謐の郷周辺で見たことがなかった土螻が現れたことを鑑みると、黯禺が絶対にこの辺りには出ないという保証はない。
その危険性を考えれば、玄海の探索は、思考を遮断する術を身につけている大雅と文始先生が引き受けるしかない。
謐の郷は西側が断崖に面しているので、調べるのは玄海に面した残りの三方向ということになる。
大雅は腰に佩いた剣を確認すると、文始先生と共に玄海へと足を踏み入れた。謐の郷から離れるにつれて、音が一欠片もない漆黒の闇が深くなっていく。
文始先生は夜目が効くため、この玄海の闇の中でも、明かりを持たずに歩くことができる。しかし大雅には明かりが必要だ。馬も連れていくことはできないので、手燭を灯して徒歩で進んだ。文始先生と一緒であれば、方向を間違えることはないが、念のため木に目印を結びながら奥へと分け入った。
進むにつれて獣や蟲に出会うようになったが、その数は以前より少ないように感じた。それに大型の獣にほとんど出会わない。
−−この辺りまで来ると、もっと虎やら熊やらに遭うものだがな……。
文始先生が顔の高さに手燭を持ち上げ、ちょうど同じことを考えていた大雅に向かって言った。
玄海では音が全て闇に吸い取られてしまうため、声として聞き取ることができない。大雅は文始先生の唇の動きを見て言葉を読み取り、頷いた。
謐の郷の少し離れた周囲を念入りに探索し終わると、文始先生が聞いた。
−−黒涼山の麓で黯禺に遭ったんだったな。
大雅が頷く。
前回玄海へ入った時、大雅を庇った昊尚に怪我を負わせた黯禺のことだ。それは澄んだ水を湛える泉のほとりに棲み着いているようだった。
−−そこへ行ってみるか。
文始先生が思案顔で言った。
大雅と文始先生は、一旦謐の郷へと戻り、いくつか持ち物を増やすと、改めて以前行った時につけた印を頼りに奥へと進んだ。
ようやく辿り着いた泉の水は相変わらず美しく澄んでいた。
−−小動物が多いな。
文始先生が泉の周囲を見て言う。大雅がこの間来たよりも多くいるようだ。
しかし、黯禺の姿はない。その場を離れているだけかもしれない、としばらく思考の蓋を外して待った。しかし、前回のように黯禺が現れることはなかった。
泉の周囲を歩いて、黯禺の巣であることを示す狩った獲物からの戦利品の山を確認すると、文始先生が大雅に向かって言った。
−−玄亀の石を焼く。
ここへ来ることになった時から、そうなるだろう、と大雅も予想をしていた。
泉の上に手燭をかざすと、澄んだ水の中に何匹かの玄亀がいるのが見えた。網を仕掛けて引き上げてみると、鮮やかな青色の玄亀がかかっていた。
−−このくらいが限度だな。
網にかかった玄亀のうち四匹を手元に残すと、この見事な玄亀を獲り尽くしてしまわないように残りは泉に戻した。
−−桂の樹で焼くんだったな。
文始先生が大雅に確認する。昊尚が範玲のために試行錯誤した、思考を遮断する玄亀の石を作ろうとしているのだ。
怪我をした昊尚の代わりに作業をしたので、作り方は大雅も知っている。
大雅は頷くと、泉のそばにある桂の群生林の中の広場へ文始先生を案内した。
広場には、前に使った炉の名残りがまだあった。文始先生の指示で、同じあたりに石を積んで前回よりも少し大きな炉を作った。
広場にあった桂の木の薪は、昊尚と来た時にほとんど使い切ってしまったはずだったが、またいくつかの薪の山ができていた。毛皮目当てで獣を狩ったり、薬の材料を採りに玄海へ入る猟師たちがいる。恐らく彼らが補充したのだろうと思われた。
大雅は、前回、薪を使ったままで帰ってしまったことに申し訳なさを感じながら、今回もそれを使わせてもらうことにした。今度はきちんと補充をして帰ることにする。
しかし、四つの玄亀を焼くには広場に積んである薪だけでは足りないだろう。
−−燃料を集めてきます。
大雅は桂の木の林へと入った。
黯禺はいないようだが、以前ここで双頭の大蛇に襲われた。桂の木々の間を警戒しながら、倒木や落ちている枝を集めた。また、薪の補充用に、木を切り倒しておいた。
燃料の桂の木の用意ができると、作った炉で玄亀の甲羅を焼き始めた。
大雅は昊尚の指示を思い出しつつ、文始先生に玄亀の甲羅四つを一度に焼くための助言をもらいながら火の調節をした。火が安定してくると、文始先生が炉を覗き込んで言った。
−−火の番は任せていいか。もう少し奥を見てくる。
文始先生が泉の向こうを指差す。大雅は頷くと、文始先生には余計なことだろうが、気をつけてください、と送り出した。
大雅に玄亀の石作りを任せると、文始先生は念のため手燭をかざして歩いた。大雅を連れている時よりも、進む速度は早い。
一刻少し歩くと、目線の先の樹々の間に少しの空間があり、建物らしきものが見えた。手燭の火を消すと、それへと近づいた。
それは、木でできた粗末な庵だった。窓はなく、出入り口と思われる引き戸が一つだけあった。庵の壁板の隙間から明かりは漏れていない。入口の戸に鍵などはなく、手をかけて少し力を入れると、建て付けが良くないゆえの抵抗だけで、開けることはできそうだった。
人の気配は感じられなかったが、念のためほんの少しだけ戸をずらした。ぎぎぎと木が軋むような感触が手に伝わったが、音が闇に吸収される玄海では戸は静かに動いた。
隙間から中を覗いて人がいないことを確認すると、更に力をかけて戸を開けた。
庵へ入ると、手燭に再び火を灯し、中を照らした。
庵の中は、奥行きが一丈ほどの広さだった。卓、椅子、寝床など人が暮らすことのできる設えがあった。しかし通常の生活を送る部屋、というよりもそこは、何かを作業する場所という印象だ。
大きめの卓の上には薬草や茸、鉱石、動物の角や牙、亀の甲羅や干物など多種多様な薬の材料が揃えられていた。薬に詳しい文始先生でも、滅多に見ないものもあった。
その卓とは別に、もう一つの台の上に敢えて分けて置いてあるように見えるものがあった。
これは何だ……?
手燭をかざして注意深く見た。
そこには、針のようなもの、爪や骨のようなもの、黒く乾燥した何かの塊がいくつかあった。
文始先生は手巾を取り出して、それぞれを少しずつ切り取って包むと、その庵を出た。
**
「玄亀の石が焼き上がるまで、文始先生が周辺を調査してくださいました。諸懐と土螻を見たということでしたが、明らかに大型の獣や怪物を見かける頻度が以前よりも少ないとのことです。……それから、玄亀を捕獲した泉のほとりに巣を作っていた黯禺は結局帰ってきませんでした」
大雅が話し終えると、重厚な執務机に両肘をつき、手を組んで聞いていた慧喬が手を解いて聞いた。
「その庵の主については何かわかったのか」
「いえ。庵にはそれを特定できるようなものはなかったようです。文始先生がしばらく様子を見ていてくださったのですが、庵には誰も寄り付かなかったということでした。謐の郷へ戻る前に何度か確認してくださいましたが、やはり誰もいなかったようです」
「辛受叔の可能性は?」
「……そう断定できるような物証はありません」
大雅の答えに眉を顰めると、慧喬が聞いた。
「文承殿は帰ったのか」
文承とは文始先生の元の名だ。慧喬だけは文始先生を元の名で呼ぶ。二人は昔からの知り合いらしく、文始先生の方も皆が畏れ敬う紅国の王に遠慮がない。
「はい。例の庵から拝借してきたものが何なのかを調べる、とおっしゃって一足先に」
「そうか」
慧喬が秀でた額に指を当てて目を瞑る。
空いた間に、大雅が腰の荷包から深い青色の亀甲形の石を取り出した。
「こちらがその時に焼いてきた玄亀の石です」
盆に載せて慧喬の机の上に置く。
慧喬は机の上に片肘をついて、盆の上の亀甲形の石を一つ手に取り、灯に透かせて見る。
「文陽が首に下げているものよりも、青く透明度が高いな」
玄亀の石の効能については、無論慧喬も承知しており、今回のものがどういった役に立つのかも理解している。
「黯禺が出てくると思うか」
慧喬が石を見ながら大雅に問う。
「……文始先生はそれを心配しておられます」
大雅がいつもの朗らかさを潜めた顔をしかめる。
玄亀の石を作ったのは、明らかに黯禺を警戒してのことだ。大雅のように思考を読まれないよう制御することができる者は限られている。もし万が一、黯禺が現れたら、腕の立つ者にこの石を持たせて、一気に始末するしかないのだろう。ただし、黯禺の血は猛毒だ。明らかに危険が伴う。
「厄介だな……」
慧喬が眉間に皺を寄せて呟いた。
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