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二年季夏 鷹学習す
宗正卿がいそいそと壮哲の執務室に入ってきた。それを見てつい壮哲の眉間に皺が寄る。
「陛下、お妃候補の件ですが、やはり孫氏か杜氏の息女が有力候補かと」
宗正卿はそんな壮哲の様子に負けじと、持って来た何枚かの姿絵を広げながら言う。
「孫氏の息女の礼晶殿は、美しいと評判です。孫氏は歴代三師のうち太保を複数輩出している、言わずと知れた名門。礼晶殿は六代男子ばかりだった孫家での久々の女子です。血筋としては申し分ございません」
やる気のない目をした壮哲の前で、宗正卿が滔々と言葉を並べる。
「それから、杜氏はご存知のとおり、代々文学者を輩出している家系で、我が秦家とはもう随分と縁組がされていません。現在の当主は太学で博士を務めており、その息女の文莉殿も太学の職員をしています。聡明な上に心根も優しく大変評判の良い女性です」
そばで控えていた佑崔が顔を上げた。
杜文莉と言えば、壮哲が即位する以前から壮哲に好意を寄せている女性として聞き覚えがあった。壮哲への贈り物の返礼を持って行ったこともある。その時の記憶を呼び起こすと、確かに好印象だった。
佑崔は壮哲の横顔にちらりと視線を移してみたが、全く反応をしていないことから、壮哲は覚えていないことを察する。
「如何でしょうか。僭越ながら、私の意見を申し上げますと、杜氏の息女は他の者に比べると少し年齢は上になりますが、人柄的にも陛下に合うのではないかと思われます。それにきっと……優秀な後継様をお育てになると存じます」
宗正卿がにこりと笑顔で壮哲に迫る。
「……臣らで良きようにしてくれればいい」
壮哲が半ば諦めたように言う。
「ありがとうございます。建国二百周年祭の折には王妃様が決まっていた方がよろしいですからね。では、お妃候補を幾人か推薦させていただきますので、選定会議ののちに決定していただくということでよろしいでしょうか。あ、その前に一度候補となられる方々と直接お会いになって陛下のご意見を……」
「……わかった」
永遠に続きそうな宗正卿の言葉を途中で遮って壮哲が返事をすると、宗正卿は「ご承諾いただきましたからね」と念を押して出て行った。
扉が閉まるのを見届けると、壮哲は椅子の背にもたれて大きく溜息をついた。
「……面倒だ……」
壮哲がぼそりと呟く。
「……壮哲様」
佑崔が気遣わしげに声をかけると、壮哲が佑崔の方をちらと見て言った。
「……などと言ってはいかんのだろうな……」
顔をしかめる壮哲に、佑崔が言う。
「……杜氏のご息女……文莉殿は確かに良い方ですよ」
「まあ、そうなんだろう。あれだけ褒めていくのだからな」
蒼国の王は王の子が継ぐという世襲制ではないから、必ずしも現在の王に嗣子が必要なわけではない。しかし、蒼国で王は青家の血を引く者の中から最も王に相応しい者が選ばれる。優秀な人材が多いほど選択の裾野が広がり、より優秀な者が王として選ばれる可能性が上がる。
ゆえに、王は未来の王の候補となり得る、王の資質を受け継いだ者を残すことが期待される。だから、確率を考慮して王妃も優秀な者であるに越したことはない、と宗正卿が考えるのも理解はできる。
壮哲はふと眉根を寄せて顔を上げた。
「しかし、私がこうやって相手を決められるのはある程度仕方ないにしても、勝手に候補に挙げられた女子たちは不満もあるだろうに」
壮哲は、月季が婚姻は好きな相手としたい、と酒に酔って力説していた姿を思い浮かべた。
「……少なくとも、文莉殿にご不満はないと思いますよ」
佑崔が言うと、壮哲が驚いた顔をする。
「どうしてわかる」
「やっぱり覚えていらっしゃらないんですね。文莉殿は以前から壮哲様にご好意を寄せておられますよ。何度か贈り物もいただいているじゃないですか」
佑崔が呆れた顔で返すと、壮哲は、むむ、と唸って考え込む。
「だからか。どうも名前を聞いたことがあるような気がしていた」
覚える気がないのか、相変わらずの他人事のような反応に佑崔が困り顔のまま言葉を探していると、壮哲が不意に苦笑して言った。
「結局は月季殿の望むとおりになりそうだな」
壮哲が、月季に早く妃を決めろと言われたことを持ち出す。
佑崔は壮哲を注意深く見た。そして。
「……壮哲様は、月季様のことをどう思っておられるのですか?」
思い切って踏み込んだことを聞いた。ほとんど女性に関心のない壮哲にしては珍しく、月季とは親しく関わっているように見えたからだ。
もしかしたら、と佑崔は壮哲の返答を待つ。
壮哲は少し考えると、うむ、と頷いた。
「猫だな」
「え?」
期待していた類のものではない壮哲の応えに、佑崔が反射的に聞き返す。
「警戒心が強くて、自分の縄張りには踏み込ませないように威嚇してくる。そのくせ時々近寄ってきては、用がなくなるとふいっといなくなる。……ああ、そうだ。手合わせをした時も動きが猫を思い出させたな」
質問をはぐらかしているのかと佑崔は一瞬勘繰るが、面白そうに笑う壮哲にその気配はない。
しかし、壮哲の口から女性についての印象が語られるのは珍しい。家族以外で佑崔が知っているのは理淑くらいのものだが、理淑は壮哲にとって弟のようなものだ。もしかしたら壮哲には、月季も理淑と同じような立ち位置なのかもしれない。
判断しかねて、大きく溜息をつきながら首を振る佑崔を、壮哲は訝しげに見た。
*
史館で範玲が資料に埋もれながら仕分けをしていると、入口の方から声がかかった。
「申し訳ありません。書庫を見せていただきたいのですが」
落ち着いた女性の声に、書類の山から範玲が伸び上がって戸口を見ると、立っていた客人が会釈した。
杜文莉だった。
「少しお待ちください」
範玲は椅子から立ちあがると、入庫の管理簿を持って文莉の元へ行った。
「では、これにご記入ください」
史館の書庫へは皇城に勤める者であれば入ることができるが、管理簿への記入が必要である。
「今、正宗殿は出ているんですが、よろしいですか?」
白い手が筆先を優雅に操り、管理簿へ美しい文字を書き付けていくのに見惚れながら、範玲が聞く。
文莉は正宗の姪にあたる。文莉は太学の職員で詩歌の研究もしており、時々史館の書庫も利用する。いつもは文莉が来ると、可愛がっている姪なのだろう、大抵正宗が嬉しそうに対応し、範玲は文莉とほとんど言葉を交わしたことがなかった。
管理簿への記入が終わると、文莉が顔を上げて申し訳なさそうにしている範玲に微笑む。
「約束をして来たわけではないですし、気になさらないでください」
「そうですか。……もし私でお役に立てるようでしたらお手伝いしましょうか?」
穏やかな雰囲気に惹かれて、つい、もう少し話をしてみたい気持ちになった範玲が申し出ると、文莉が少し躊躇った後に眉を下げて言った。
「……実は、お恥ずかしい話ですが、以前、詩文集の写本で、李定可の梅花に関する詩の部分に元本と異なる表記があるものを見たことがあるのですが、それがどれだったか分からなくなってしまって……。しかも、それがここに所蔵されているものだったかも曖昧で」
困った顔で話す文莉を前に、範玲が顎に手を当てて首を傾げて何かを考えている。
「……私も書庫にご一緒していいですか?」
そう言うと、範玲は文莉を先導して書庫へと入り、文学関係の資料がある場所に進んだ。範玲は唇に指を当てて考え込むように棚を眺めると、平置きしてある幾つもの本の山の一つから表紙を確認して一冊抜き取った。そして、一つ奥の通路へ移動し、もう一冊、しゃがんで下の棚の本の山から取り出した。何枚か紙を捲って中を確認すると、二冊一緒に文莉へ手渡した。
「もしかしたら、このどちらかではないですか……?」
文莉は戸惑いながら本を受け取ると、片方の表紙を見て何かに気付いたようにぱらぱらと紙を繰る。
「……これです……!」
本から顔を上げて、驚きを隠さず範玲を見る。そして、もう片方も中を確認して、信じられない、というように首を振った。
「すごいわ……」
そして範玲に感謝の眼差しを向ける。
「ありがとうございます。端から中を見ていく覚悟で来たのに、こんなに直ぐに見つけていただけるなんて……。しかも私の知らなかった別のものまで……」
「お役に立てて良かったです」
範玲が嬉しそうに言って、ほっと胸を撫で下ろす。すると、文莉は少しいたずらっぽく笑った。
「叔父上には言えませんが、叔父上に聞くよりも絶対に早かったと思います」
落ち着いて知的な雰囲気の黒い瞳に愛嬌が加わったのを見て、範玲もつられて微笑む。
「それにしても、本当にどれもこれも覚えていらっしゃるのですね。驚嘆に値します。生き字引とは、まさに範玲様のことですね」
真っ直ぐな賞賛に範玲がくすぐったそうに笑うと、文莉が目を細めて言った。
「……範玲様、史館にお勤めになる前に試験を受けられたでしょう? 実は私、記録係であの部屋におりましたの。試験の様子を拝見して、記録を取るのを忘れてしまうくらいあの時も驚きました」
範玲は試験を受けた日のことを記憶から呼び出す。
そういえば部屋の隅に女性が一人いたような気がする。
「特に、あの詩の問題の解答は完璧でした」
そう頷きながら言う文莉に、とんでもない、と慌てて範玲が手を振る。
「……私、読むのは好きなのですけど、記憶しているだけで、文学に造詣は深くありませんし、詩歌の才は全くないんです」
残念なことに、と範玲が眉を下げると、文莉は真面目な顔でふるふると首を振る。
「そんなことありませんわ」
そう否定した後、ふと思いついたように文莉が続けた。
「……あの、文学がお好きでしたら、うちにも珍しいものがありますので、宜しかったらご覧になりますか?」
文莉の遠慮がちな申し出に、範玲の碧色の瞳がきらりと輝いた。
「本当ですか? 杜家の文学の蔵書は素晴らしいとお聞きしてて、一度拝見したかったんです」
範玲の想像以上に前のめりな反応に、文莉はうっかり吹き出すと、「是非」と嬉しそうに微笑んだ。
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