二年季夏 鷹学習す

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*  前日の暑かった空気が夜のうちに冷えて、陽の光も爽やかに感じられる。空の青さもまだ清々しい執務の始まる前の早い時間だ。  宮城の園庭で壮哲に向かって、宗正卿だけが暑そうに額の汗を拭きながら熱心に説明していた。 「よろしいですか。蓮池の園亭(あずまや)に妃候補の方々五名が一人ずつ待機しています。陛下は水廊をとおって順に園亭を巡ってください。あ、園亭に着いたら陛下からお声をかけてくださいね」 「わかった」  壮哲は眉間に皺を寄せて頷いた。 「しかしこんな早い時間に申し訳ないな」 「そう思われるのでしたら、きちんとお話をして、それぞれの方の人となりを知ってあげてください」  宗正卿が壮哲に笑顔で圧力をかけながら言った。  五人に絞られた妃候補と会う機会をとってほしいと言われて、五人も、と渋った壮哲に宗正卿が提案したのはこうだ。  宮城の園庭にある蓮池に沿った水廊には園亭が配置されている。五つの園亭に一人ずつ候補の女性が待機し、壮哲がそこへ行って茶のもてなしを受ける、という流れ式の面会だった。暑い時期なので、午前中の早い時間が設定された。この時間ならば、蓮の花も開いており、話題がなくともとりあえず間が持つだろうという配慮である。  今回は佑崔も側に従わないことになった。園亭は見通しの良い位置に配置されているし、是非二人だけで話をしてください、という宗正卿の差配だ。 「では、陛下、よろしくお願いいたします」  宗正卿の満面の笑みと、少し心配そうな佑崔に送り出されて、壮哲は示された道順を進んだ。  最初の園亭に着くと、凝った刺繍を施した襦裙を纏った小柄な女子が頭を下げて待っていた。 「面をあげよ。其方(そなた)の名は?」  打ち合わせどおりの言葉を壮哲がかけると、若干緊張が混じってはいるが、はっきりとした声が返って来た。 「孫礼晶と申します」  宗正卿が有力と言っていた孫氏の息女か。そう言えば、父親の孫氏を園庭の入口で見かけたな、と壮哲が思い出す。  顔を上げた礼晶は、美しいと評判が立つとおりの華やかな顔立ちで、形の良い大きな瞳が印象的だった。父親には似ておらず、母親似なのだろうと察せられる。 「朝早くからすまなかったな」  壮哲が笑いかけると、礼晶は壮哲の顔を見て固まったまま返事がない。 「どうした?」  椅子に腰掛けながら声をかけると、はっと我に返って滑らかな頬を赤らめて言った。 「失礼いたしました。陛下にお会いできて光栄でございます。今、お茶をお淹れします」  礼晶はそう言うと、段取りどおり、用意されていた茶器で茶を淹れ始めた。  手元が若干ぎこちないのは、普段淹れ慣れていないからなのだろう。恐らくこの面会のために覚えさせられてきたのだろうな、と壮哲が少々申し訳なく思う。  どうぞ、と小ぶりの茶碗を壮哲の前に置くと、礼晶は一仕事終えてほっとしたように壮哲の向かいの椅子に腰掛けた。その様子にはまだあどけなさが残る。  妹の杏湖よりも年は下だろうか、と壮哲は自分よりもずいぶん若そうな礼晶を見る。ふと、礼晶はこの面会に連れてこられた意味がわかっているのだろうか、と心配になり、尋ねた。 「其方は、この面会の趣旨は承知しているのか?」  すると、礼晶が姿勢を正して言った。 「はい。勿論です。大変光栄なことと思っています」 「不服はないのか」  壮哲が聞くと、礼晶が驚いたように大きな目を更に大きくした。 「ある筈がございません」  何故そのようなことを聞くのかという顔だ。まだ若いせいか元々の性格なのか、心のうちが全て表情に現れて手に取るようにわかる。 「我が孫家は、代々要職をお任せいただいております。私も蒼国のために陛下をお支えしたいのです」  形の良い瞳を輝かせて熱く言い切った。しかし、どこか背伸びしているように見える忠誠心が、何だか微笑ましく、壮哲が思わず笑いを漏らす。  それに気づいて礼晶が不安そうに言う。 「……可笑しかったでしょうか……」 「いや、すまん。可笑しくない。蒼国のことを思ってくれてありがとう」  笑いを誤魔化すために、見るからに薄い茶に口をつける。それを礼晶が心配そうに見ているのに気づき、壮哲が「ん?」と笑みを残したまま目線を向けると、礼晶は赤くなって俯いた。  下を向いてしまった礼晶に、普段何をして過ごしているのかと壮哲が話題を振ると、礼晶はちらと大きな目で壮哲を窺い、嬉しそうに話し始めた。初対面の、しかも王にも物怖じせず楽しそうに話す姿からは、いかにも皆に可愛がられて育ったのだろうということが伝わってきた。  話題が一段落したところで、次を待たせているから、と壮哲が腰を上げる。 「手間を取らせてすまなかったな」  壮哲が言うと、礼晶も立ち上がり、頭二つ分ほども高い壮哲を仰ぐように見上げた。 「陛下とお話ができてよかったです。……私の家は代々文官で、武官の方とはお会いする機会もありませんでした。ですので実は、禁軍の将軍でいらっしゃった陛下は、何となく怖い方だと思っていました。……でも、とてもお優しくて、安心しました」  頬をほんのりと染めて嬉しそうに言う屈託のなさに、壮哲がつられて「それは良かった」と微笑むと、礼晶の頬は更に染まった。  名残惜しそうな礼晶に見送られて最初の園亭を後にし、順路の水廊を進むと、次の園亭に待機している女性の姿が見えた。  あと四人か……。  壮哲はつい流れ作業をこなすような気持ちが出てしまいそうになるのを戒めて、歩を進めた。  続く園亭で打ち合わせどおりの面会をした班氏、邯氏、張氏のそれぞれの息女たちは、いずれも妃候補になるだけあり、美しさも教養も兼ね備えた女性ばかりだった。  王妃の候補となったことに対しても、本意ではない者はいないようだった。恐らく王妃になったとしたら、いずれもその役割は(そつ)なくこなしてくれるだろうと思われた。  とは言え、最後の園亭に辿り着く頃には、壮哲はすっかり疲れ果てていた。時間にしたら一刻もないが、普段こんな風に気を使って女性と話したことがないからだ。 「長く待たせたな。面を上げよ。名は?」  これでおしまいだな、と内心で安堵しながら壮哲が声をかけると、物静かに腰を下げ、穏やかな声が返って来た。 「杜文莉でございます」  聞き覚えのある名前だ。宗正卿が、僭越ながら、と薦めてきた女性か、と壮哲の頭に浮かぶ。 「待ちくたびれただろう」  壮哲が言うと、文莉が静かに顔を上げて穏やかに微笑んだ。 「いいえ。宮城の蓮池をこんな風にゆっくりと見られる機会などありませんので、楽しく過ごしておりました。……陛下こそお疲れですか?」  五人の中でも最年長であるからか、落ち着いた態度に壮哲がほっとする。 「いや。大丈夫だ」  壮哲が言うと、文莉が椅子を勧めた。椅子に腰掛けると、茶を淹れ始めた文莉の横にある本に目が留まった。 「待っている間、それを読んでいたのか」 「あ……申し訳ありません」  文莉が、しまった、という顔をちらりとして壮哲の前に茶碗を置いた。 「別に咎めているわけではない。時間は有効的に使う方がいいさ。すまんな、付き合わせて」  壮哲が苦笑すると、文莉が慌てて首を振った。 「とんでもありません。……陛下にお会いできるのを楽しみにしておりました。……本を持って来てしまったのは、蓮池のほとりで読んだら気持ちいいだろう、と思って……。申し訳ありません。私欲です」  落ち着いていた顔を少し赤らめて文莉が言ったのを見て、壮哲が笑いながら文莉の入れた茶を手に取る。  実際のところ、もう茶は十分なのだが、折角淹れてくれたのだからと口をつける。  茶を口に少し含んだ途端、香りの深みとまろやかさが広がった。 「美味いな」  思わず言った壮哲を、文莉がほっとした様子で嬉しそうに見る。壮哲は二口目を口に含みながら、以前文莉から香炉を贈られていることを佑崔から聞かされていたのを思い出す。 「……そう言えば……香炉の礼を言っていなかったな」 「いいえ、そんな。却ってお気を使わせてしまいました」  申し訳なさそうに文莉が目を伏せる。 「其方と会うのは今日が初めてだな?」  念のため壮哲が確認すると、文莉は壮哲の反応を見ながら躊躇いがちに言った。 「……実は、以前、お会いしたことがございます」  文莉の言葉に、口に付けようとした茶碗を持つ壮哲の手が止まる。 「すまん。覚えていないな。いつのことだ?」 「陛下が左羽林軍の将軍になられた年の、ちょうど今の時期だったと思います」  言われても思い出せず首を捻る壮哲を見て、文莉が微笑む。 「陛下がご勤務を終えて、多分、軍の方とお食事か何かに行かれるところだったのだと思います。子どもから財布を盗ったひったくりを、陛下が捕まえてくださったところに居合わせました」  文莉が思い出して、ふふ、と笑う。 「逃げる犯人に足をかけて転ばせて。あれはお見事でした」 「そんなことがあったか」  壮哲が茶碗を置いて、将軍になった頃というと三年前か、と記憶を手繰る。  そういえば、そんなこともあったかもしれない。部下と飲みに出かける途中で、女性の「誰かその男を捕まえて」という声で咄嗟に走ってくる男に足をかけた。  取り返した財布を子どもに渡した時に、子どもを助け起こしていた女性がいたような気もする。 「……何となく思い出してきたぞ。あの時、捕まえろと叫んだのは其方か」 「……捕まえろと叫んだなんて、そんな……」  壮哲の言い方に、眉を下げて赤くなった文莉が「お会いしたことがあるなんて、言わなければよかった……」と身を縮めて小さく呟く。  そんな文莉を見て笑いながら、壮哲が聞く。 「その時に名乗ったんだったか?」 「……その折はご挨拶をしておりません。一緒にいらした方がお名前を呼んでいらしたので、後で陛下だと知りました」  だからか。覚えていないわけだ。と壮哲が納得する。 「あれは身内の子どもだったのか」 「いえ。たまたま、あの子がひったくりにあったところに行きあってしまって」  あの時は子どもの身内だと思ったが、そうではなかったのか。  壮哲が改めて文莉を見る。穏やかで物静かな見かけではあるが、咄嗟にひったくりに向けて声を上げる行動力もある。  ふむ、と壮哲が頷く。 「……そうだ。聞いていなかったな。……其方は、この候補になったことに対して不服はないか?」  壮哲が聞くと、文莉は目を(しばたた)かせた後に面を伏せた。俯いた文莉の顔は壮哲からは見えなかったが、耳が赤くなっているのが目に入った。 「お声をかけていただき、本当に光栄に思っております。……もし陛下のお役に立てるのであれば、こんなに嬉しいことはございません」  文莉が好意を持ってくれていることは一応佑崔から聞かされていたが、この返答から壮哲も漸く文莉の気持ちを実感した。  穏やかで落ち着いた中にも朗らかさがあり、しっかりとした芯もありそうだ。正義感も咄嗟の行動力も持っている。飛び抜けて美しい容姿という訳ではないが、凪いだ水面のような閑やかな眼差しは人を惹きつける。話し方も声も耳に優しく、聴く者を安心させる。  もし王妃となったら、きっと皆に慕われるだろうと思われた。  それに。  この短い面会の中で、壮哲自身も文莉のことを好ましいと感じていた。  成る程。宗正卿が薦めるはずだ。  壮哲は感心して文莉を見た。 **  紅国皇太子の執務室。  玄海から直接紫紅峰へ帰っていた文始先生から文が届いた。  大雅はその文に目をとおすと、大きく溜息をついて慧喬の元へ急ぎ足を向けた。  文始先生からの文の内容は、玄海の奥の庵から持ち帰ったものの正体についてだった。  結論は、黯禺だろうと(したた)められていた。  以前昊尚が黯禺の爪で怪我をした際に、解毒剤を作ってもらうために黯禺の毒の付着した衣服を文始先生に渡した。その時に採取した毒を元に調べたらしい。  爪や骨だと思われるもの、針のようなもの、黒く乾燥した塊、全てから黯禺の毒が検出された。  黒く乾燥したものは恐らく内臓、そして針のようなものは黯禺の体を覆うあの(かた)い毛だろうということだった。
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