悪魔の鎮魂歌

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 しんしんと重く白いばかりの雪が降る中、僕は妻のナタレーを抱えて階段に座り込んでいた。ナタレーの薄紅の頬にゆっくりと触れ、彼女が深く眠っていることを確かめると、ほっとしながらも途方に暮れた。  先月出産をして、親類共々喜んでいたのが遠い昔のことのように思える。  今、その子はもう手の届かないところへ行ってしまった。あまりに短い生涯だった。  ただ、肝心の死因について、何故だかはっきりと思い出せない。赤子がナタレーに似た美しい子だったことだけはよく覚えている。  ナタレーの嘆き悲しむ声がはっきりと蘇った時だった。  背後から、よく通る男の声がした。 「そんなところにいないで、中に入りなさい」  振り返ると、一人の厳めしい顔つきをした牧師が立っていた。一見して年の頃は僕と変わらず、三十をいくらか過ぎたぐらいにしか見えないが、見た目通りではないような佇まいだ。  僕はいつの間にか教会の前に来ていたことに気がつき、思わず苦笑が零れる。どこかで神の救いを求めていたせいか、無意識のうちにここへ来てしまったらしい。  振り仰ぐと、屋根のところにある教会らしい十字架が光を纏ったかのように見えた。美しくさえ見える輝きだったにも関わらず、僕は射抜かれたように一瞬痛みを感じた気がした。 「おじさん、早く中に入りなよ」  ナタレーを腕に抱えたまま呆けたように十字架を見ていると、いつの間にか十歳前後の少年が近くにいて、僕を急かした。  牧師が立っていた方を見ると、既に中に入ったのか、姿は見えない。  僕はナタレーを抱えて立ち上がり、少年に問いかけた。 「君は、教会の子なのか?」  教会の子と言えば、普通は孤児になるのだが、それにしては少年にみすぼらしいところは一切なかった。孤児に対する偏見かもしれないが、もっと薄汚れていたり、古着を着ているイメージがある。だが、少年は真新しい衣類を着ていて、金に輝く髪と溌溂とした表情をしており、どこか孤児にそぐわない。  そんな僕の考えを見透かしたのか、少年は大人顔負けの顔つきで肩を竦める。 「さあね。あんたにそう見えるんなら、そうなんだろう」  まるで謎かけのような返答だ。  僕が更なる質問を投げかけようとしていると、少年はさっさと教会の中へ入ってしまった。その後を追いかける前にもう一度十字架を見上げたが、もう先ほどのような光は発していなかった。  重厚な扉を開き、ゆっくりと教会の中へ足を踏み入れる。外側から見た印象で、さほど年季が入っていなそうな様子だったが、中も真新しかった。手入れが行き届いているというよりも、たった今建てられたように。そんなあり得ない考えを否定しながら笑うと、背後で扉が勝手に閉まった。驚いて振り向くが、そこには扉を閉めた人物はいない。  どういう仕組みなのかと首を捻った後、僕の意識はすぐに扉の左右にある置物の方へと逸れた。 「こ、れは……?」  教会を純白のドレスに例えるならば、その置物は真っ黒いシミのように異質だった。コウモリを連想するギザギザとした羽に、醜悪な顔つき、尖った耳に、ぎょろりと今にも飛び出しそうな眼玉。  普通の感覚であれば、思わずそれから目を背けたくなるものだろうが、僕にはその置物が酷く大きく、神々しくさえ見えた。  近くに寄れ。もっとだ。触りに来い。  そう誘いをかけられているのが聞こえた気さえして、僕は一歩ずつそれに近づこうとする。 「おじさん、それに触ったら覚悟を決めないとね」  はっと隣を見下ろすと、いつの間にか先ほどの少年がいて、にやりとしながら僕を見ていた。その笑みがまるで獲物を見つけた獣か、あるいはもっと恐ろしく底が知れないものに見えて背筋が凍る。 「か、くご……?」 「知りたい?いいよ、特別に教え……」  少年は続けようとした言葉を飲み込み、教会の奥の方に目を向ける。つられて僕もそちらへ視線を投げると、美しいステンドグラスに描かれたマリア様の笑顔がまず目に留まる。続いて、檀上に飾られたイエス・キリストの銅像と、それに向かって祈りを捧げている牧師の背中が見えた。  何の変哲もない光景だが、少年は何かを感じたのか、小さく舌打ちした。 「どうし……」  少年に尋ねかけたが、少年は一つ首を振って教会の奥にある通路の方へ消えた。その背中を不思議に思いながら見送っていると、今度は牧師が声をかけてきた。 「あなたのお名前は?」 「……アルベルトです」 「ここには彼女のために?」 「はい……あれ?」  依然として背中を向けたままの牧師の質問に答えながら、腕に抱いていたはずのナタレーの姿がないことに気がつく。慌てて探そうとして、教会の最後尾の長椅子の上に横たえられているのを見てほっとする。  だが一方で、一切自分がナタレーの体をそこに運んだ記憶がなく、些か気味が悪かった。 「どうかなさいましたか」 「いえ、何でもありません。ちょっと疲れているみたいで」  ようやくこちらを振り向いた牧師の顔を見て、咄嗟にそう返す。  牧師の酷薄そうな薄いグレーの瞳が、自分の何かを暴いてしまいそうだと感じた。暴かれて困ることはないはずなのに。 「可哀想に」  牧師がナタレーを憐憫に満ちた目で見つめながら呟く。僕も改めて眠るナタレーを見て、そのやつれた様子に小さく胸が傷んだ。  見た目にそぐわないが、ナタレーを見つめる牧師の目からは本気の心配を感じ取り、気がつけば僕は自ら口を開いていた。 「ナタレーは、僕との子どもができてとても喜んでいました。でも、その後すぐに、子どもが死ん……」  続きを告げるのを憚られ、口を噤む。牧師が僕を見る目に、一瞬、本当に瞬きをする短い間だが、同情や憐憫とはまるで違う感情が浮かんだ気がしたのだ。  何だ?怒り?悲しみ?いや、そんなまさか。でも、酷く冷たかったのは確かだ。  僕の困惑をよそに、牧師は何もなかったように言葉を重ねた。 「そうなんですか。じゃあ、今回は彼女とその子どものためにお祈りを?」 「え、ええ……」  ぎこちなく頷くと、牧師は首を振った。  「いや、あなたはそれだけのために来たわけではない。そうですよね」 「え?いや……」 「よく、その子どものことを思い出してください。そうすれば、本当の願いを思い出すはずです」 「その、子どもを……」  牧師の何もかも見透かすような瞳に促され、僕は目を閉じ、子どもを思い出そうとした。  ナタレーにそっくりで、愛らしい僕たちの子ども……。  暗闇の中で、次第に過去の情景が浮かんでいく。ナタレーが腕に抱いた赤子を、思い出そうとする。何度も、何度も思い出そうとする。  だが、何故か少しも思い出せなかった。名前さえ思い出せない。  その代わりのように、するりと別の光景が浮かび上がり、まるで今目の前にある出来事のようにくっきりと見えてきた。 「やめて、やめて!誰か!助けてー!!」  必死に悲鳴を上げているナタレー。その手足は拘束され、顔は恐怖に歪んでいる。  記憶の中のナタレーに僕が近づくと、ナタレーは来ないで、来ないでと繰り返し叫びながら怯えていた。  そうか、僕は……。  本当の過去を思い出した僕が回顧から戻ると、牧師は始めて憐憫のような顔をちらりと滲ませたが、すぐに険しい顔つきになる。 「思い出しましたか。そう、あなたは彼女の夫などではない。彼女の恋人でさえない。早く現実に……」 「うるさい、うるさい、うるさい!!」  僕はいつの間にか手にしていた拳銃を牧師に突きつけようとして。      目が回る感覚に襲われた後、はっと我に返ると、暗闇の中にいた。硬く冷たい床。鉄格子。両手に取り付けられた手錠。  そこは教会でも何でもなく、牢獄の中だった。濁流のように押し寄せてくる記憶の数々が、僕に本当の現実を教える。  ナタレーをストーカーしていた僕は捕まったが、罪を認めず、あまりの絶望で死を選ぼうとしていたことを。あれは僕の気がおかしくなって見た幻覚に違いなかった。  僕はおかしくなって一人で笑う。だが、途中で笑うのを止めた。  僕の隣に幻覚の中で見た悪魔の銅像があって、こちらをにたりと笑いながら見ていたからだ。
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