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3.猫の手
小さなオフィスに、始業時間から電話が鳴り響いている。
社員たちもとりたいのはやまやまなのだが、なにせ人手が足りないのだ。有機栽培の茶葉をブレンドした健康茶を、卸や通販で扱っているのだが、なんたらというインフルエンサーが愛飲しているとかで、一日十件程度だった注文が一気に激増した。電話もひっきりなし、メールもファックスも次々受信を知らせる。営業や配送担当も総動員したところで、十人足らずの人手では対応しきれたものではない。
「猫の手も借りたい、ってこのことよねえ」
一本終えたら、早速次が鳴る。電話ラッシュの合間に、古参女性社員が溜息をついた。
「すまない、みんな」
男性主任が声を張り上げる。
「ようやく手配がついて、今日から助っ人が来てくれる。あと少し、ふんばってくれ」
折よく、来客を知らせるチャイムの音がする。期待に胸をふくらませ、新人女性社員が応対に席を立った。
「こんちはー!ご依頼の、『猫の手』お持ちしました!」
「え」
満面の笑みで男が置いた段ボールに、目が点になる。
男性主任が割りこんだ。
「なんだねこれは。これでは、まさに」
「猫の手っす。三つ、とりあえず一週間、ですよね」
箱を開いて手に取り、男性主任と女性社員が顔を見合わせる。これは。まさに。猫のぬいぐるみから腕の部分だけとってきたような。ふさふさの白い毛に茶色の毛が縞模様を描く、つやも質感も見とれるほどではあるものの。
「この、まるで本物のような、出来はすばらしいと思うんだが、その、私が、猫の手といったのは、猫の手も借りたいほど困っている、という状況を伝えようとしたのであって、だね」
「そうでしょ、よくできてるでしょ~。もうね、こだわったんですよ、毛並みからなにから徹底して再現するぜ、って。苦労したんですから」
「肉球のさわりごこち、最高ですね」
たまらず人差し指で触れ、女子社員がぷにぷにの触感にうっとりする。
「でしょ~。まだまだすごいんですよ。ここもこだわったんですから。ほら。強く押したら」
「きゃっ」
シャキーン。効果音が響く勢いで、二センチほどの爪が五本、伸びあがった。爪とはいえ、先が細く鋭くとがって、白い刃のようだ。
「小さいとき、猫にひっかかれて、めっちゃ痛かったんすよねー。だからこのリアル感も、ゆずれなくって。切れ味もバツグンっすよ、凶器になるレベルっす」
「そんな物騒な、というかあの、ほんとに猫の手持ってこられても、うちは困るんで。ひとまずこれはキャンセルで。ですよね、主任」
「いや」
男性主任は、むんずと爪の伸びた猫の手をつかんでいた。
「これ一本だけ、置いてってくれ」
「主任?」
女性社員が青ざめる。
「はいどうぞ。使い方はおまかせしますけど、たとえ赤く染めちゃっても、ちゃーんと、よっく洗って、あとが残らないように返してくださいね。レンタルですからね!」
「なんか怖い言い方やめてください!主任!何するつもりなんですか?」
女性社員の叫びも耳に入らない様子で、男性主任は皆が業務に追われる中にずんずん踏み入っていく。全力で猫の手を振り上げたからたまらない。
「みなさん!気をつけて、あぶない!」
悲鳴は電話やメールの着信音にかき消される。
ザクッ。
主任の一振りで、真っ二つになった。
それだけで、あれだけ鳴り続けた電話の音が消え、ファックスが止まり、メールも届かなくなった。
通信回線のケーブルが断ち切られたのだ。
「・・・助かった・・・」
突如訪れた、静けさ。取り戻したかつての平穏に、思わず女性社員の頬が緩んだ。
「猫の手が」
主任が高々と振り上げたそれが。私たちを、救ってくれたんだ。
パチ、パチ、パチ。一つ、二つ、拍手が静けさを満たしていく。
「やった!」
「さすが!」
全社員が、心からの感謝を込めて、拍手と笑顔でたたえていた。
「主任」
駆け寄る女性社員の目に、涙が浮かぶ。
「やっぱり、猫の手ですね!」
「あぁ。猫の手だ」
パチパチパチパチパチパチ。
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