傍生(ぼうしょう)

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『―――……お、目を開けた! ほら、わかるか? 私が見えるか?』  鏡に向かって……否、私に向かって話しかける男がいる。  壊れ物を扱うような手つきで、小さな私を抱き上げて、使い慣れない筋肉をひくつかせた、引き攣った微笑みを向けてくれている。獣の唸り声にも似た低い声は、遠くから聞こえる雨音と合わせて、妙に静かで、聞き心地が良い。 『私がお前のお父さんだ。お、と、う、さ、ん……あぁいや、その前に名前か、そうか。もちろんそれも決まっている』  そうだ、彼が私の父上だ。ガラス細工と小さな命どちらが脆いかも分からぬ、世間の常識から外れた男。 『横……いや、傍生だ。お前にはぴったりの名前だろう』  我が子と呼んだ側から、そんなふざけた名を大真面目に付ける男。  だが当時の私はその非常識など知る由もなく、ただ幼心に思ったのだ。  そうか、私の名は傍生というのか、と。  我が新たな父、芦原治重は、彼なりに懸命に、甲斐甲斐しく私の世話をしてくれた。  ミルクは人肌の温度の時に飲ませるだとか、一歳を過ぎるまでは夜泣きで眠れなくなることを覚悟するだとか、そういった乳児を育てる上での知識自体は頭にあったらしいが、実際うまく活用出来た日はなかった。  命とは教科書通りに行かぬものなのだな、と、どこか達観したような表情で呟く姿は、それでも、そんな私に対する愛情が上回っていることの証左と言え、だからこそ、私が父上に信頼を置くのにも、時間はかからなかった。  真面目な、けれどどこかズレた父上の子育ては、特に知育の面において目立った。 『よし、じゃあ今日は蜘蛛の糸にするか。前々から聞かせてやりたかったのだが、なかなか絵本が見つからなくてな……』  蜘蛛の糸、杜子春、百万回生きた猫、地獄八景亡者戯、夢から醒めた夢、はては日本を始めとした世界各国の神話、旧約聖書、新約聖書……彼が私に読み聞かせるものは、いずれも地獄、あるいは輪廻転生の概念を絡めたものばかりだったのだ。  子供に読み聞かせるものは絵本でなくてはならない、という知識のもとで選りすぐられてなければ、その量は数倍にも膨れ上がっていたと思われる。  それほどに、鏡に映る父上は、私に地獄とは、魂とは何であるかを教育することに熱を上げていた。当時の私はその意味を殆ど理解できなかったが、ただ何となく、賽の河原での石積みは楽しそうだ、と思った。 『いいかね、傍生。そも死後の世界、というものは、日本以外にも、世界中に様々な形が存在する。  だが所謂天国、極楽と呼ばれる世界の概念はまばらで、天は神の住む国であるため、人の魂など入る隙はない、とする経典も数多い。  一方で我々が地獄と呼ぶ概念は、多少形が変われども、天国よりも多く存在する。  聖書における煉獄を始め、成り立ちや仕組みこそ異なれど、それらに共通するのは、生前の罪を裁き、償うという点だ』  こと自分の言葉を用いた解説となると、父上の話は途端に難しくなる。私は、言葉の半分も理解できず、ただポカンと、雄弁になった父の姿に、見入るばかりだった。 『私はそのルーツを知りたいのだ。なぜ人を幸せにする世界よりも、人を不幸にする世界の方がより広義に浸透したのかを』  父が己の言葉に力を込める時は決まっていた。一つは、こうして持論を語る時。  ひとつは、私を罰する時。  鏡がぼやけ、別の姿を映し出す。私が蹲り、父上がその上に、私を押さえつけるように立っている。私を繋ぐのに使っていた鎖は、手首に巻き付けられている。  傍には割れた花瓶があり、零れた水が、父上の書物を濡らしていた。 『何故だ、何故だ傍生。私はここでは大人しくしておくようにとあれほど言ったのに。ここにあるものはどれひとつとして、お前の力では取り戻せないものばかりだからと、あれほど言い聞かせたのに』  虫が飛んでいたのだ。手のひらよりも小さな羽虫が、窓の隙間から入り込み、父上の大事にしていた本の上に止まったのだ。それを追い返そうと、本が置かれている机の脚を掴み、揺らした。そこに置かれている花瓶のことなど、考えもせずに。 『その耳には届かなかったか? お前の立派な耳は、私の声をお前の頭まで届けてはくれなかったのか? あぁ、であれば、そんな耳は必要あるまい』  ジャキリと、父が手にしていた布切り鋏が音を立てたところで、映像は切り替わる。  次に映った私は、片耳が半分千切れかけていた。  父の伴侶たる、奥方に当たる人は、数年前に亡くなっている。  父上と奥方は、決して険悪な関係ではなかったらしい。  けれど、それでも子を成せなくなったと彼女が泣いた時ではなく、彼女が病でこの世を去った時になってから、私を引き取ることを思い立ったのは、ひとえに父上の人心への配慮の至らなさが原因であり、その事は、何かにつけて父上を苦しめていた。  もっと早く私を引き取っていればよかった。もっと早く伴侶の思いに気付ければよかった。何もかもが遅かった。ならばせめて、今から少しでも、贖罪の意味を込めて、我が子を育てよう。  そう自らを追い詰めた果てが、私に対する苛烈な二面性だったのだろう。  そこからは、二種類の内容がひたすら入れ替わりに見えるだけだった。私に語り掛ける父。私を叱りつける父。私の記憶は、その二種類のみで構成されていた。外の景色など見たこともない。私はあの家から一歩も外に出たことが無いのだから。 (……あぁ、ここだ)  何度目かの切り替わりの時、私は確信を持って思えた。これが、鏡に映る最後の景色だと。
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