傍生(ぼうしょう)

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  そこに映る私は、もはや蹲る気力もなく、ただ地面の上に力なく倒れ込んでいて、父はそんな私を、涙を湛えた目で見つめていた。手に持っている鞭は、すっかり使い込まれた様子だが、実際どれだけの時が経っていたのかは、私にはわからない。ただ語り掛ける日より、叱りつける日の方が増えていた。  そしてその日は唯一、両方が同時に訪れた。  サラサラと降る小雨の音が耳に煩わしい。父上と出会ったあの日と同じ音なのに、心音と熱と痛みに浮かされる我が身には、とても耳障りだった。 『あぁ、死後の世界というものを調べていると、つくづく人というものの傲慢さを感じるとも。  罪深き人に下す罰に、畜生道などというものを用意する時点で、人は人ならぬもの全てを見下し、憐れんでいることになるのだから。  全ての命は平等であると謳いながら、肝心の器には優劣を付けている。  あぁそうだ、結局のところ、煉獄とは、地獄とは、人のために作られた概念なのだ。  傍生、傍生や、よく覚えておきなさい。  この世とは理不尽に満ちた世界だ。我田引水を当然と嗤う者が平然と生き延びる一方で、己が夕飯さえも他者に施す者が飢えて死ぬ。  どちらの人間が美しいかは明白だ。だが因果応報という言葉が当てはまらぬ末路が、あまりにも多すぎる。  だからこそ、人々は地獄の概念を作ったのだ。生前叶わなかった応報を、せめて死後の先では存分に与えられるように、と。  それは決して、決して、誇るべきことではないのだ。他人の不幸を死してなお望むなど……あまつさえ、それが全世界の人類が願った死後の概念であるなどと』  その日、私は外に出てしまったのだ。扉が開いていたから。その先に見えた景色が眩しくて、私の好奇心を刺激してしまったから。父上、申し訳ありません、何度も言われていたのに。幾度となく教えてくださったのに。私は自分の内から湧き上がる衝動を抑えることが出来ませんでした。  父の目に溜まった涙と、口から零れる血が、私の身体へと零れ落ちてくる。私を抱きかかえながら漏れる声に嗚咽が混じる。 『許せ、傍生。私はお前を幸せにしてやれなかった。私は父親失格だ。いいや、父親どころか、人間であることすら恥ずかしい。  こんなことなら最初から、お前を好きに生かしてやるべきだった。その方が、お前は幸せだったろうに。  私を恨んでいるだろう。同じだ。私も私が恨めしい。私はお前をこんな目に遭わせるために引き取ったわけではないはずなのに。私は結局、いつも取り返しがつかなくなってから気付くのだ』  父上、父上、どうか泣かないでください。貴方が悪いのではありません。私にこそ責任があるのです。この身に刻まれている傷は、全て我が身の不徳が生み出した自業自得というものなのです。  あぁ、そうだ、父上、貴方の言葉、貴方の考え。その一か所だけ、どうか反論をさせてください。  地獄の概念ばかりが世にある理由。それは決して、相手を罰したい、という思いのみで生み出されているのではない筈です。  地獄の存在を求めるものは、加害者とて同じはず。生前犯した罪の深さに心痛める者達ならば、こう考えるのではないでしょうか。今生で罰が与えられぬのならば、せめて死後に苦しみを、と。  ならば、それは人が誇るべき自罰の感情ではありませんか。父上、父上、今の貴方のように。  私も同じです。貴方を苦しませてしまった。芦原家の一員として迎え入れてくれた父上を、このように泣かせてしまったことは、本当に心苦しいです。  父上のお話が確かなら、貴方は死後、天国へは行けぬのでしょう。であれば、せめて私も共に。地獄が罰を望む者も受け入れるのなら、一足先に地獄へ落ち、その先で貴方を待ちたく思います、父上。  なので、どうか、どうか閻魔様。私を貴方の元までお連れください。  父より先に死ぬ愚かな私の願いを、どうか聞いていただきたい。そのためにも、私に裁きを、私に罰を、私に救いを、どうか、どうか……。
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