傍生(ぼうしょう)

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「……けるな、なんで俺が………っ。……そんなの……じゃねぇだろう……とめられるか……!」  声が聞こえる。その声がまるで釣り糸のように、泥の底で微睡んでいた意識が真っ黒な空の下へと引きずり出された。周りを見渡すと、地面とも山とも判断がつかぬ、黒い空との境目さえも朧げな赤黒い世界が広がっている。     黒の中に赤い切れ目の走る空の下、自分の遥か前方にある建築物の中から、怒りと不満をぶちまけるような怒号は轟いていた。 「……ぁ、頼むよ……、……こそはちゃんと……れでも反省……」  最初は威勢よく響いていたが、やがてそれは遠吠えのようにか細く、小さな物へと変化していく。悲痛な声を、私は何処か他人事のように聞き流した。  身の毛がよだってもおかしくない景色を見てもなんとも感じないのは、この赤黒い世界に見覚えと親しみがあるからだろうか。そう思いかけたが、そもそもこの景色と比較するような映像が思い浮かばないことに気付く。はて、私は一体誰なのだろう。  頭の中に残るものを探ろうとするうちに、今際の際に立たされた虫の鳴き声が如く頼りないものとなっていた声は、聞こえなくなっていた。後に残された静寂の中、遠くからぽつぽつと雨音が聞こえてくる。その音は、私の中にある何かを思い出させてくれそうな気がした。 「次」  呼ばれ、立ち上がろうとして、自分に脚が無い事に気付く。否、脚だけではない。自慢の顔も、父に褒められた屈強な体格もそこにはない。私の身体は、暖炉から飛び出した火の粉のような、頼りない不知火になっていた。もしや景色に思うところが無いのは、よだつ身の毛がそもそもなかったからだろうか。  そういえば、私は何故、今、自分が呼ばれたのだと確信出来たのだろう。  疑問も疑念も碌に払拭されぬまま、けれど不思議と戸惑うこともなく、私は声に導かれるがまま、巨大な建築物の中へと入っていった。まるですでに何度も、同じことをしてきたかのように。  建物の中は、外と違って煌びやかなものだった。私の辿った道は、建物をまっすぐ突っ切っており、そのまま反対側の出口へと通り抜けられるようだった。  だがその中央には、巨大な机と椅子、そしてそこに鎮座する赤ら顔の大男がおり、私の行く手を阻む。私も、何の疑問もなく、机の前で立ち止まった。 「……貴様か」 「はて、私をご存知なのでしょうか。私はトンと見覚えがありませんが」 「無論。ここを行くものは皆幾度となく我が前に立っている。お前とて例外ではない。だが見覚えが無いのも必然。前世の記憶など、残るはずもない」  前世。その言葉に聞き覚えはある。だが思い出そうとするも、頭に靄が掛かったようで、目的の物を掴み出せない。 「だが、一方で不思議だ。お前は何故ここにいる」 「それは私も訊ねたい所です。いえ、おぼろげながら、私が望んだような気はするのです。どうか貴方の元へ連れて行ってくれと、そんなことを嘆願した気が。ただ誰に頼んだのか、どうも、ここに来るまでに、それまでのことを全て忘れてしまったようで」 「……いいだろう。であれば、お前の過去に訊くとする」  大男が手を振ると、近くにいた角の生えた男共が、大きな鏡を持ち出した。映した者の一生を映写する、浄瑠璃の鏡。はて、何故これの名はすっと出てきたのか。そう言えば、あの角男共も、赤ら顔の大男も、よく知っている気がする。目の前をひらひらと蝶のように飛び回る記憶の欠片を捕まえようと試みるが、鏡が光り、そこに映った光景を目にして、私の頭は、そんなものはどうでもよくなってしまった。
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