妖怪妙ちきりん堂

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 時は明治時代。文明開化の名の元、町は西洋式の建物や文化であふれ、和様の物と入交り華やかさを増していた。活気良く商店がにぎわい、人々が行き交うメイン通りに一人の男が馬車から降り立つ。  スマートな体に合わせてあつらえられたスーツを纏った色男は、上品な上に爛漫と咲く花のようなオーラを放つ。その男は藤堂雅晴(とうどうまさはる)という。  女性たちの視線をくぐり抜け、色男が向かうのは白く洗練された内装の呉服屋でもなく、甘ったるい匂いがそそる菓子屋でもない。しゃれた西洋風の店の横に続く狭い路地。路地裏へと足取り軽く入っていくと、そこには学校終わりに子供たちが集まる駄菓子屋、カラフルな万華鏡のような(くし)やかんざしが目を引く髪飾り屋が軒を連ねる。  その一角に雅晴の目的地があった。  骨董屋「千希林堂(ちきりんどう)」。  千希林堂のおもてから中を覗くと、骨董屋には似つかわしくない光景が広がる。客はみな女性で、鮮やかな着物が寄り合う。まるで水風船や屋台の金魚のようにふわふわひらひらと心踊る女性たちの中心にいるのは、これはまた妖艶な風貌に派手な色の着流し姿の男であった。  絹のような銀色の髪に深い紫色の瞳は他の人間と比べても異質だった。しかし、男の端正な顔立ちと所作がそれらをも魅力とさせていた。 「紫雨(しう)くん! おっと、これは時間を改めた方がよさそうかな?」  雅晴の声に振り向いた女性たちが声の主を視界にとらえると、眼と頬が熱をおびる。 「すなまいが数時間は戻ってこなくていい」 「またつれないことで。じゃあ一時間ほど大通りの喫茶店で時間をつぶすよ。あそこのあんみつ最高に美味しいって知ってた?」  早く出ていけと言わんばかりの視線に雅晴は手を振って退散する。  ここ千希林堂は表看板では骨董屋、だが実質は占いどころとなっている。店には毎日女性客が集まり、占いに熱をあげる。そしてまた女性客たちはここに多種多様な噂話をもってきた。  占いどころというのもまた実は表の顔であった。 「本当に女の子っていうのは占いが好きだね」  客がひいた頃、千希林堂に戻ってきた雅晴は骨董品の手入れをする紫雨の前に腰掛けていた。紫雨は蘭が描かれた瑠璃(るり)色が美しい、丸い陶器の花瓶を丁寧に(ぬぐ)う。 「どうして堂々と占い屋をやらないの? 骨董屋のふりなんてしちゃって」 「一応占い禁止令が出ているんだ。このご時世大々的にはできないだろう。それに本業のこともあるから目立ちたくない」  もう目立っているのではと、雅晴は紫雨の顔を眺める。 「それより、綾子様にフラれたそうじゃない。――藤堂雅晴子爵?」 「その呼び方やめてよ。父上はまだ隠居してないし、現役も現役、ぴんぴんしているんだから。振られたのは確かだけど」 「一応次期当主でしょ。君のような人がこんな路地裏の骨董屋なんかに頻繁に出入りされたら目立ってしょうがないよ」 「安心して。馬車はテーラーの前に停めて来た。家令はそこにおいてきてる。俺はそこにいることになってる」 「君ってば……」  呆れ果てると、紫雨はまた骨董品の手入れに専念する。 「ところで今回の依頼はね、綾子様の母親である長谷川藤子(とうこ)様からなんだけど」 「まだ長谷川家に関わるの? あまり追いかけると本当に嫌われるよ」 「しょうがないじゃない。紫雨の噂をお聞きになられて、藤子様じきじきに頼まれたんだよ。――妖怪がでたって。」  仕方がないといったように小さくため息をつくと、紫雨は依頼内容を話すように促した。 「先月あたりからかな。お屋敷の天井から手がにょきっと現れるんだって。しかも長谷川定徳(さだのり)伯爵の寝室に限って。寝ている時に毎日毎日手が天井から伸びてくる。さすがに定徳殿も藤子様も気味悪がられてね。それで君になんとかしてほしいって」 「その手は何か悪さをするの?」  紫雨が手入れの手を休める。 「いや、ただ伸びてくるだけらしい」  顎に手を当て、紫雨が少し考える。 「それじゃ、さっそく行ってみようか。今晩」 「今晩!?」 「別に雅晴は来なくてもいいよ」 「いや、行くよ。もちろん。出来損ないは暇なのさ。さっそく藤子様には連絡を入れておく」  紫雨は、忙しいはずであろうこの男のスケジュールはどうなっているのかと首をかしげる。  夜も更けた頃、二人は長谷川家にやってきた。迎えてくれたのは女中のトメノだった。トメノが客間へと案内する。二人は先に客間にて藤子を待った。 「雅晴は綾子様に会ったら気まずくないの?」 「あれ? もしかして心配してくれてたの? せっかくだけど、そんな険悪じゃないよ。この世界じゃよくあることだよ」  二人が話していると、藤子が現れた。 「雅晴さん、紫雨さん、わざわざ来ていただいて悪かったわね」 「いえ、依頼とあればいつでも。ところで例の手が出る部屋というのは、定徳様の寝室と聞いておりますが」  藤子は手の事を聞くと顔色を悪くする。よほど参っているようだ。 「大変無礼を申し上げるのですが、今日一日定徳様のお部屋をお貸しいただけませんか? 寝床は床で構いません」 「もちろん。長谷川にも話しております。どうか、あの気色の悪いモノをどうにかしてください」  分かりましたと紫雨が藤子に告げる。藤子がその旨をトメノに話すと、トメノはテキパキと支度をし、二人を定徳の部屋へと案内した。部屋には心ばかりの簡易ベッドが二つ用意されている。 「雅晴もここで寝るの?」  驚いて雅晴を見ると、こちらもテキパキと荷物をほどいている。藤子が気を利かせ、雅晴付きの使用人をすすめたが雅晴は断っていた。 「次期藤堂家当主がこんなにも自由で大丈夫なの?」  紫雨が嘆くが、雅晴は気にする様子もない。  しばらくは二人でたわいもない話をしたり、本を読んだりと時間をつぶす。やがて屋敷内も寝静まったころに、いよいよ紫雨が部屋の明かりを消さんとする。 「さて、寝支度をする前に、紫雨、散歩に行かない?」  紫雨はまたしても呆れる。今日は仕事で来ているというのに。人様の、しかも伯爵家の家を勝手に散策とは身の程知らずもいいところだ。それでも雅晴は大丈夫大丈夫と紫雨を無理やり連れだした。  さすが元縁談相手の家。今は決裂してしまったが、勝手知ったる他人の家である。こそこそと移動する雅晴についていくと、屋敷の外にある広い庭に出た。広い敷地内の庭だけあって、敷地の外の音が入ってこない。しんと静まり返った空気が気持ちいい。 「紫雨、見て」  雅晴が指さした空を見上げると、煌々(こうこう)と光る月と、満天の星空が目に飛び込んできた。これには紫雨も驚き、うっとり見惚れた。 「ここから見える夜空はここら一帯で一番綺麗なんだ。これがなかなか見られなくなるのは、ちょっと残念かな」  屋敷の明かりも消え、暗闇に月明りだけが差し込んでいる。  月の光に照らされ、紫雨の銀色の髪がキラキラと(きら)めく。同じ色をした睫毛を携えた目は、たくさんの星をとらえていた。紫色の瞳が深い夜の空を吸いこんでいる。紫雨が瞬きをするたびに光をはじき、まるで星屑(ほしくず)が飛び散るようだった。    雅晴は夜空ではなく、紫雨の横顔をじっと見つめていた。 「紫雨は本当に幻想的だよね」  雅晴の言葉とは裏腹に、紫雨は怪訝そうな顔をする。 「見た目について褒められても素直に喜べないな」 「ごめんごめん、そうだったね。でも悪気はないんだ」  二人が空を見上げていると、敷き詰められた芝生にぽわぽわとわたぼうしの様なものが光り、浮かびだした。それもあちらこちらに、ふわふわと。 「うわ、何何!? これも妖怪!?」 「大丈夫だよ、害はない。この家の繁栄の(しるし)のようなものだよ。敬愛の念が集まってきて住み着いているんだ。それにしても、雅晴は本当にね」 「ああ、俺もそんな幸運の妖怪なら憑いていてほしいよ」  紫雨が目を丸くして雅晴を見た。気付いていないの?とでも言わんばかりだ。 「雅晴は出会った時からずっと巻き付いてるよ」 「何が?」 「蛇が」  ぎょっとして雅晴が脇の下や背中を大げさに確認する。その様子をみて、紫雨がふっと笑う。 「九十九神(つくもがみ)。もうじき龍に変化(へんげ)する偉大な妖だ。雅晴はちゃんと守られているよ」  雅晴が安堵のため息をついた。 「いろんなモノが見えるくせに、その蛇は見えてないんだね」 「そういうもんだろ。周りの事は見えても、自分の事は見えないものだよ」  そろそろ体も冷えてきた。二人はそっと屋敷に戻る。「ごめん、用を足してから部屋に戻る」と言って雅晴が行ってしまったので、紫雨は一人部屋に戻ろうとした。その時だった。廊下の影から人影が現れた。 「綾子様?」 紫雨の呼びかけにしっと人差し指で口元を抑えると、綾子が廊下の隅に紫雨を招いた。綾子が小声で紫雨に話す。 「紫雨さん、驚かせてしまいすみません。初めまして、長谷川綾子です。実は、雅晴様のことでご相談が――」  紫雨が部屋に戻ると、すでに雅晴がベッドに転がっていた。 「なんで紫雨の方が遅いの。もしかして迷っちゃってた?」 「うん、少しね」  紫雨もベッドに腰を下ろす。 「今日も出てくるのかな? 例の手」 「どうだろうね。でも出てきてくれないと、解決策が出せないな」  部屋の明かりを消し、仰向けになりじっと天井を見つめた。    幾刻か過ぎたころ、雅晴はすっかり寝息を立ててしまっている。紫雨が何かを感じ取る。すると天井から白く淡く光る手が現れ、伸びてきた。それも一本ではなく何本も。紫雨が雅晴を小突き起こす。  寝ぼけた雅晴が薄目を開け、天井を見る。 「うわっ。本当に手が伸びてる。しかもこんなにたくさん」  手が二人の元まで伸びてくる。しかし触れるでも危害を加えるでもない。ただその存在を(あら)わにしていた。 「稚児(ちご)の手――か」  紫雨が手の一つにふっと息を吹きかける。するとするするっと手が天井へと戻り消えていった。 「え、もしかして今ので終わったの?」 「いや、少し引っ込んでもらっただけ。雅晴、妖怪にはね、現れる原因が必ずあるんだよ」  紫雨は手のあった天井をまっすぐに見つめる。 「――さ、今日はもう寝よう」 「え! この状況で? 興奮して寝れないよ」  騒ぐ雅晴の横で紫雨は静かに目を閉じると、ゆっくり眠りに落ちていった。  一晩を長谷川家で過ごした明け方、二人は藤子に挨拶をして屋敷を出た。 「さて、僕は今から調べたいことがあるから」  そう言って紫雨が踵を返す。 「待って待って、俺も行くよ」  紫雨がいよいよ呆れる。 「雅晴はやらなきゃいけない事がたくさんあるでしょ。家のこととか」 「だから出来損ないは暇なんだって。大丈夫、実は数日空けてもいいように、仕事は片づけてきてある」  この男はなぜ自分を卑下し、なぜ今の立場に甘んじているのか紫雨には分からなかった。  本当は出来る男なのに。 「今から行くところ、雅晴は来ない方がいいと思うよ」  紫雨が諭すも、雅晴は聞く耳をもたずに馬車に乗り込むと、紫雨に行先を尋ねた。  馬車が止まったのは、東京の花街、新橋だった。昼間はまだ閑散としているこの町に降り立つ紫雨と、スカーフを口元まで巻き、帽子を深くかぶった男。紫雨は「だから言ったでしょ」と言いたげに視線を送る。 「占いどころに来る女性はね、いろんな話を持ってきてくれるんだよ。俗なこととなると、余計に色めき立つ」  さきほどから終始無言のスカーフ男を余所(よそ)にして、紫雨が向かった先は芸者、芸妓たちの置屋「松西川」だった。入り口をくぐると、女将が二人に気付く。 「あらあら、紫雨さん。今日はどうされたの? それに雅晴様も。お久しぶりで」  瞬時に正体を見破られ、雅晴は観念してスカーフと帽子を取る。 「最近はあまり遊びに出られてないみたいで、みんな雅晴様に会いたがっていますよ?」 「は……はあ」  雅晴が気まずそうに笑う。 「雅晴様に懇意の人ができたみたいって、うちの子たちが残念がっていましたけど」  雅晴がちらっと紫雨を見たが、紫雨はまるで聞いていないといった顔で澄ましている。  居心地が悪そうな雅晴に構う事なく、紫雨が女将に尋ねた。 「不躾にすみません。ちょっと女将さんが知っていたら教えてほしいのですが。長谷川定徳伯爵のことで」 「定徳伯爵。そういえば最近新橋でお見掛けしないような。なんでもお気に入りだった芸者が田舎に帰ったそうで。それが原因なのかしらね?」  紫雨は考えていた事が当たっていたといった顔になる。 「そうでしたか。すみませんが女将さん、もう一つ頼まれてはくれませんか?」 「紫雨さんにはうちの子たちもお世話になってますからね。事にもよりますが、お力になれることがあれば」  女将はにっこり笑って答えた。 「はあ。まさか定徳殿が。そうか」  帰りがけの馬車の中、雅晴はなんども独り言をつぶやいていた。 「とりあえず定徳様に会えるように掛け合ってくれる? できれば藤子様は同席なさらない方が良いでしょ」 「分かったよ。日取りが決まれば連絡する」  それから二人は外を眺めながら静かに馬車に揺られていた。メイン通りに差し掛かったところで、雅晴が口を開いた。 「さっき松西川の女将さんが言ってたことだけどね」 「長谷川家との縁談を破談にさせるなんて、本当に君は愚かだよ」 「う、うん……そうだね」  雅晴には言おうとしたことがあったようだが、言葉を続けることはなかった。  紫雨は頬杖をつきながら、落ち込んだ様子の雅晴を見遣った。 「雅晴はたまに自分を出来損ないと言うことがあるけど、雅晴の最大の武器はその人柄、人徳だと思うよ」  いきなり何を言い出したのか雅晴には分からなかった。 「雅晴が誰に対しても等しく優しく接するから、だから僕なんかも君の人生に巻き込まれてる」 「なんか、いきなり褒められてる? それとも怒られてる? 怖いんだけど」 「言ったでしょ。雅晴はちゃんと守られてるんだよ」 「あ、これって慰められてるの?」  紫雨はそれ以上何も言わず、また目線を窓の外に移した。  数日後、紫雨と雅晴は再び長谷川家を訪れていた。今回客間で待つのは長谷川家当主の長谷川定徳だ。華美なドアが開き、定徳が部屋に入ると二人は椅子から立ち上がる。 「ああ、よいよい。今回はこちら側から頼んだことだから、気を遣わず座ってくれ」  長谷川定徳は恰幅のいい見た目に、柔らかい表情を備えた優しい男だった。 「雅晴くん、今回は綾子がすまなかったね」 「いえ、綾子様は私にはもったいないお方です。綾子様には幸せになっていただきたい。これは私の本当の気持ちです」  優しく定徳は頷いた。 「それで、例の手のことは何かわかりましたかな?」  定徳の問いには紫雨が答えた。 「定徳伯爵。ご無礼を承知で心当たりの事を調べさせていただきました。新橋の芸者、鞠菊(まりきく)さんをご存じで――」  鞠菊の名前を聞いたとたん、定徳の表情が曇った。 「鞠菊さんとは懇意の仲であったとか。密かに逢瀬を重ねておられましたね」  隠す事は無駄だと知り、定徳は大きくため息をついた。 「ちょうど例の手が現れる前。鞠菊がいきなり消息を絶ってな。置屋の女将に聞いてもなにも教えてはくれん」 「それ以来、連絡は取れていないのですね?」  定徳が目を瞑り、渋い顔で頷いた。 「鞠菊さんは、ご懐妊されています」  瞑っていた定徳の眼が大きく見開いた。 「それではあの手は、私への恨みなのか? 子供ができたことで鞠菊はもしや――」 「いえ、違います。鞠菊さんは今は田舎に戻られています。子供は生むつもりだそうです。ただ……」 「ただ?」 「ただ、定徳伯爵に祝ってほしいのです」  祝う?定徳は言葉の意味が分からなかった。 「当初鞠菊さんは何も言わず新橋を去りました。それは伯爵に迷惑をかけたくないから。しかし、心の奥底ではあなたの喜ぶ顔が見たかった。二人の間に命を授かれてよかったと、本当は言ってほしい。その気持ちが今回稚児の手という形になり、現れたのでしょう。妖怪は常に恨みと共にあるわけではございません。人の祈り、願い、そんなものも時として妖怪となり、人の前に姿を現すのです」  定徳は口を真一文字に結んだ。何かの感情を抑えているようだった。 「松西川の女将さんから鞠菊さんの住所は聞いております。あとは定徳伯爵のなされたいように」  紫雨が机の上にメモを置くと、頭をさげ、帰り支度をした。雅晴も慌てて後を追う。トメノが玄関から送り出してくれた。  長谷川家の仕事を終えると、紫雨はいつもの生活に戻る。千希林堂には女性たちが詰めかけ、占いを楽しむ。他愛のない世間話に花を咲かせる。そんな日々を送っていた。  しかしその日はひどい雨が降っていた。遣いで外に出ていた紫雨は傘を差しながら、慌てて店に戻る。今日は看板を出していないはずなのに、一人の客が店内に座っている。 「雅晴? 来てたの?」  紫雨が声を掛けると、机にうなだれ突っ伏した雅晴が顔を上げる。 「定徳殿だけどね。あのあと鞠菊さんのところへ行ったそうだよ。二人で子供の事を喜び、今後出来る限りの支援をすることにしたそうだ。そしたらね、例の手はもう現れなくなったって」 「それはよかった」  傘をたたみ、肩の雨を払いながら紫雨が雅晴の元にやってくる。 「紫雨。ハナの事知ってたんだね。大通りの喫茶店の」  いきなりその話題をふられ、少し驚いた様子の紫雨だったが、ゆっくりと雅晴の前に腰を下ろした。 「長谷川家に泊まった日に、綾子様から聞いたんだよ。君には本当は好きな人がいるってね。だから綾子様は身を引いた。表面上は長谷川家からの破談という事にしてくれたんだって。でも結局君とハナさんは別れさせられた。君のお父上によって。それでも綾子様は君の思い人の事を心配していたよ。優しいお人だね」 「本当に俺は阿呆だよ。ハナは喫茶店の女給。ハナとの関係を父上が許すはずもないのに。綾子様にまで愛想をつかされちゃって。紫雨がハナを見つけだして、匿ってくれたんだね」 「俺じゃない。兄上だよ」 「――安倍川伯爵か」    婚約者は同等階級かそれ以上が好ましいとされたこの時代。雅晴の父は長谷川家との破談の原因がハナにあると知り激怒した。雅晴に伝えることなく、ハナを遠くへ追いやったことで、雅晴はハナと離れ離れになってしまっていた。  紫雨は兄である安倍川家現当主の繁守(しげもり)に頼み、ハナを見つけ出し観世(かんぜ)という子爵家の女中として抱えさせていた。他家の女中とあれば、見つかったとしても簡単に手がだせないと踏んでのことであった。 「観世子爵家は評判がいい。喫茶店の女給なんかより給料もいい。寝床もある。礼を言うよ、紫雨」 「それでもハナさんとは会えなくなることに変わりはない。藤堂子爵に感づかれないために雅晴にも内緒で動いていた。勝手なことをして悪かったよ」 「でもお別れの時間をちゃんとくれたじゃない」 「家に縛られるなんて、やるせないね。ハナさんとはちゃんと別れの挨拶はできた?」 「―――」  雅晴の肩が震えているような気がした。声が震えて、鼻声になって、嗚咽がもれる声が聞こえた気がした。でも紫雨はすべて知らないふりをして、ただ傍にいた。 「ねえ、これからあんみつ食べにいかない? 本当に美味しいんだよ。紫雨にも食べさせたい」  鼻をすすりながら雅晴が話す。 「ハナさん目当てで通ってたんじゃないの?」 「違うよ。あんみつを食べに行ってたら、ハナに出会ったんだよ」  今日ばかりはしょうがないと、紫雨は立ち上がり再び表に出ると、ざーざー降りしきる雨に向かって銀朱色の傘を開いた。 「早く準備して。行くよ」  雅晴がいつもの明るい顔になり、紫雨を追いかける。 「あ、あとね、また依頼があるんだけど、聞く?」  雨傘二つ。華やかな街の細い路地裏に並び歩いていく。それは珍しい光景ではなく、いつもの光景の一コマ。
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