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今夜も彼女はいつもと変わらぬ笑顔で現れた。うきうきしながら結婚式への思いを語る彼女を見ているうちに何だかこちらまで嬉しくなってくる。二人で会うのもこれで三回目。そろそろ紹介所に正式な返答をしなきゃいけない。
(正式に結婚を前提をした交際ってやつを申し込むかな)
そんなことを思いながら店を出てトイレに行っている彼女を待つ。すると妙な臭いを感じた。何と言ったらいいのか……そう、湿った臭い。
(ん、雨か?)
空を見上げるが雨の降り出しそうな気配はない。次第に異臭は強まっていく。もはや雨の臭いなんかではない。ずっと掃除していない水槽のような腐った水の臭い。
「お待たせ」
そう言って背後から彼女が俺の手を握った。
(えっ)
叫び声をあげないよう必死に耐えつつ嫌悪感に身を震わせる。彼女の手は死人のように冷たく、ブヨブヨとしたゴムのような手触りだった。耐えがたいまでに強まる腐臭。と、同時にひとつの記憶が俺の中に流れ込んできた。
川で遊ぶ姉妹、おかっぱ頭の妹はお人形さんのようにとても愛らしい。犬を連れたお爺さんが通りかかり「こりゃまた別嬪さんじゃなぁ」と笑う。振り向く姉妹。姉は気付く。お爺さんの視線が妹だけに向けられていることに。無邪気にお爺さんに手を振る妹。姉は無表情にそんな妹を見下ろしていた。そしてお爺さんの姿が見えなくなると、姉は妹を……。
ぎょっとして振り返ると彼女が「あ、ごめんなさい。大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」と怪訝そうに首を傾げている。だが俺の視線は彼女の丁度左肩あたりに蠢く黒い影のようなものに釘付けだった。目を凝らすとその黒い影は徐々に少女の姿になっていく。全身ずぶ濡れの少女。おかっぱ頭に整った青白い顔。
(彼女の妹……か)
女の子は俺には目もくれずじっと姉だけを見ている。紫色の唇がそっと動いた。
――お姉ちゃん、ユルサナイ。
沈鬱な気分でパソコンの起動画面を眺めていた俺はスマホの通知音で我に返る。相談所のサイトから通知が来たようだ。案の定彼女からのメッセージ。体調不良を気遣う内容だった。今更断ったら不審に思われるだろうが仕方ない。それにしてもあれだけの怨念を背負いながら手を握られる瞬間まで全く気付かなかったことには本当に驚きだ。殺された妹の姉に対する憎悪、それに負けない程姉の妹に対する憎悪も深かったのだろうか。それが打ち消し合って気配を消していた? 真相はわからない。微笑みながら妹の思い出話をする彼女を思い出し俺はゾッとした。姉妹は互いを憎みつつそれでも離れられないのかもしれない。
「やめやめ、忘れよう」
俺は軽く頭を振り相談所に断りのメッセージを送るとサイトをそっと閉じた。
了
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