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一匹のカピバラが海の見える歩道を歩いていました。 背中にはその小さな体に合わせたリュックサックがあり、前を向きながら人のように立って後ろ足二本で進む姿は、初めて見たら驚くかもしれませんね。 カピバラが歩いている場所は湘南。 神奈川県の相模湾沿岸地方を指す名称で、その語源は、かつて中国に存在した長沙国にあった洞庭湖とそこに流入する瀟水と湘江の合流するあたりを瀟湘と呼び、その南部に似ていたことから、瀟湘と湖南より一字ずつを取り湘南としたとされているところです。 そんな小難しいことよりも、湘南といえばやはり海のイメージ。 そして明るくて開放的な土地柄。 または鎌倉を中心に歴史ある場所といったほうが一般的でしょうね。 この地域は高湿度や潮風などに悩まされることもありますが、一年を通じて暮らしやすい場所と言えます。 「あッ! なぎさちゃんだ!」 「よう、なぎさちゃん。お散歩かい?」 すれ違う女の子やおじいさんが、カピバラの名を呼びました。 そう、この二足歩行で歩くカピバラはなぎさちゃんと言い、地元の人で知らない人がいないほどの有名人? です。 ちなみに“ちゃん”と呼ばれているだけあって、なぎさちゃんは女の子ですよ。 元々は水族館で働いていましたが、外の世界を知りたいと願ったなぎさちゃんは仕事を退職し、そして現在に至ります。 今日もまた自身の旺盛な好奇心を満たすために、湘南の各地をぶらりぶらりと歩いているのです。 なぎさちゃんはなんとなく商店街のほうへと向かっていました。 特に意味はありません。 気の向くままに歩を進めるだけです。 「今日は陽射しが強いね。はい、どうぞ」 ジェラート屋さんの前を通ると、なぎさちゃんに気が付いた店員のお姉さんがアイスクリームをくれました。 新鮮な果物や野菜を使ったジェラートはイチゴ味で、ペロリと頬張ると、果物が大好きななぎさちゃん思わず「キュルキュル」と鳴いています。 それからあっという間に食べてしまうと、店員のお姉さんに丁寧に頭を下げてお礼をしました。 なぎさちゃんの礼儀正しさは、水族館でお世話になった飼育員の人から教えられたものです。 イチゴ味のジェラートに大変満足したなぎさちゃんは、ちゃんと食べ終えたカップをそこら辺に放ったりせずにゴミ箱へと捨てます。 カップをゴミ箱に入れたその姿はどこか誇らしげです。 偉いよ、なぎさちゃん。 でも、そこまで胸を張ることでもないけどね。 誇らしげにまた歩き出したなぎさちゃんでしたが、気がつくと目の前に泣いている男の子がいました。 何があったのだろうと近づいてみると、男の子は泣き止んでなぎさちゃんのことを呆けた顔で見ています。 「大きいリス……? かわいいッ!」 なぎさちゃんは自分がカピバラであること伝えようとしましたが、泣き止んでくれたので止めておきました。 喜んで抱きついてきた男の子の気持ちに、水を差したくなかったからです。 「ねえリスちゃん。ぼくのお母さんしらない? なんか、いなくなっちゃんだ」 どうやらこの男の子は母親とはぐれた迷子のようでした。 なぎさちゃんがその小さな胸を短い手でドンッと叩いてみせると、不安そうだった男の子の顔が明るくなります。 「えッ!? お母さんを見つけてくれるの!? やった! ありがとッ!」 コクコクと首を上下に動かし、「キュルキュル」と鳴き返したなぎさちゃんは、後について来てと言わんばかりに手を振ると、男の子と共に歩き出しました。 それから道行く人や並んでいたお店の人たちに声をかけ、ついに男の子の母親を見つけたのです。 「うわーん! お母さん! どこにいってたの!?」 泣きながら母親に抱きついた男の子を見て、なぎさちゃんはウンウンと頷きながらその様子を見ていました。 その姿は、先ほどのゴミ箱に食べ終えたカップを捨てたときと同じように誇らしげです。 「まあ、あなたがこの子を連れてきてくれたのね。ありがとう」 男の子の母親が頭を下げて礼を言うと、なぎさちゃんもお辞儀を返します。 いえいえとでも言いたそうですね。 「お母さん。ぼく、お腹減った。もう帰ろうよ」 「そうね。そろそろおうちに帰りましょうか。それじゃね、カピバラちゃん。本当にありがとうね」 「へーカピバラっていうんだこの子。じゃあね、カピバラちゃん」 男の子は母親に手に引かれて去って行きました。 二人の背中を見送っていたなぎさちゃんの両目には涙が滲んでいます。 どうやら仲良しの親子を見たせいか、なぎさちゃんもお母さんのことを思い出してしまったようです。 ホームシックというやつになってしまったなぎさちゃんは、堪らずその場から走り出してしまいます。 滅多ことでは出さない野太い大きな声で「ヴァッ」と鳴きながら、目を瞑って石畳の道を駆けていきます。 ですが、いきなり走り出して、ちゃんと目を開けていないと転んでしまいますよ。 気を付けてね。 「ヴァッ!?」 ほら、やっぱり転んでしまいました。 周りに誰もいない場所で、うつぶせの状態で泣いているなぎさちゃん。 そのとき、空から雨が降ってきました。 あれだけ晴天だったのに、これは大変。 突然降り出した雨は、ポツポツと雨音を立てながら次第に強くなっていきます。 泣きっ面に蜂とはこのことです。 しかし、それでもなぎさちゃんはその場で倒れたままでした。 起き上がろうとはせずに、石畳に顔を埋めて泣いているだけです。 雨音を聞きながら、なぎさちゃんは自分がこの世界でひとりぼっちなんだと感じていました。 水族館での仕事を辞めて外の世界へと飛び出してみたはいいものの、眠る場所がないためいつも野宿。 親切な人は多いけど、けしてなぎさちゃんの寂しさは埋まりません。 もう、一生このままなのかもしれないと、なぎさちゃんが思っていると、ふと前にあるものに気が付きました。 「キュル?」 それはカタツムリでした。 カタツムリは倒れているなぎさちゃんに向かって、背負っている巻貝を揺らしています。 それを心配してくれていると感じたなぎさちゃんは立ち上がり、すぐにカタツムリを頭にのせて側にあった草むらに入りました。 鮮やかに咲くアジサイを傷つけないように屋根を作り、カタツムリと一緒に雨露をしのぎます。 アジサイと葉っぱの屋根に入ったなぎさちゃんは、その身を思いっきり震わせて水を払いました。 カピバラの体毛はタワシのような手触りの硬く長いもので、体を震わせるだけで水を落とすことができるのです。 すっかり水を落としたなぎさちゃんは、頭に乗っていたカタツムリを地面に降ろすと、背負っていたリュックサックからリンゴを出しました。 カタツムリと一緒に食べようと考えたのです。 ですが、当然カタツムリはリンゴを食べることができません。 ただなぎさちゃんのほうを向いて、巻貝を揺らすだけです。 困ってしまったなぎさちゃんがふと空を見上げると、雨はすっかりと止み、青空が広がっていました。 どうやらにわか雨だったようですね。 強い陽射しも戻っています。 「キュルッ!?」 安心しているところに、アジサイと葉っぱで作った屋根から水滴が垂れ、なぎさちゃんは思わず声をあげてしまいました。 それはカタツムリの上にも落ちますが、カタツムリはなんだか嬉しそうに身をよじっています。 なぎさちゃんはそんなカタツムリを再び頭に乗せると、草むら出て歩き始めました。 そして空へと手をやり、カタツムリに向かって「見てごらん」と促します。 晴れた空には虹がかかっていました。 なぎさちゃんはカタツムリのおかげで綺麗な虹が見れたと大喜び。 そのまま上機嫌で歩を進めていきます。 なぎさちゃんは太陽と虹に向かって大声で鳴き、カタツムリにも一緒に鳴くように触れていました。 ちょっと寂しくなっちゃったけど、新しい友達ができたようです。 よかったね、なぎさちゃん。 了
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