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傘を開きながらバスのステップを降りる。
イヤホンから聞こえるはずの音楽も掻き消すほどの雨音は、疲れ果てた私にはかなり鬱陶しく感じられた。
付けていても意味が無いイヤホンを耳から外すと、強い雨音だけが耳に入った。
いつも周囲から聞こえる雑音は雨音にかき消されて聞こえない。
普段、クラスで陰湿な嫌がらせを受け、幼稚なクラスメイトの玩具となって気持ち悪い笑い声や雑音ばかり聞いている私にとって、雨音しか聞こえないこの時間は至福だった。
家に帰っても酒に溺れた父が居るだけで、私に対する興味は一ミリも持っていない。
暴力とか痛みを伴うものは受けていないが、受けていないからこそ誰にも頼れなかった。
そういう信頼出来る人間が一人もいない環境に慣れてしまうと、何かを考えることが嫌になり、それから逃れるために私は毎日のように知らない道をふらつくようになった。
制服でも、路地裏等あまり人が通らない場所なら警察の目もかいくぐれることも知った。
そのため、先程降りたバス停も、家とは真逆の方向だ。
それに、こんな雨の日は人通りも減るから、行き先もなく漂うのには最適だ。
目が痛くなるような明るさのコンビニの前を通り抜け、横の細い道へ足を進める。その道から広がる更に細い道、細い道、と歩いていくと、私1人がやっと通れるほどの、高いビルが並ぶオフィス街の狭間の道に来ていた。
そう、このくらいの狭さがちょうどよいのだ。相変わらず雨は強くなる一方だが、それさえも心地よかった。
1人の時間を満喫していると、ふと雨の匂いに混ざって生臭さを感じた。…否、これは鉄?深く息を吸うと、その中に甘い香りも混ざっていた。
「…っ!」
あぁ、この香りは。脳裏に浮かんだ優しいあの顔。私を突き放したあの顔。
考えれば考えるほど頭痛がして、頭を抱えてしゃがみ込んだ。すると、目の前にふわりと黒い塊が二つと、青い紫陽花の花が舞い降りた。
その瞬間、甘い香りが一気に濃くなる。
あぁ、そうだ。この香りは、
「クチ、ナシ」
___『貴方はもう私の子じゃないの』。
「っ、」
そんな声が聞こえた気がした。やめて。行かないで。__いや違う、それは昔の話だ。だとしたら、それならもしかして目の前にいるのか?それも違う。あの人は死んだのだ。居るはずがない。それでも、嫌だ。怖い。そのはずなのに、私はゆっくりと顔を上げてしまった。
だが、そこに居たのはもちろんあの人ではなかった。立っていたのは、モデルのように整った顔の若い男性だった。
何故か落胆したのもつかの間、私はその男の下に倒れている小太りの中年男性に目線がいった。思わず息を吸い込み、体が固まった。
男は目を見開いていて、怯えた表情のままぴくりとも動かない。その首元が赤黒く切れていて、口は唾液だらけだった。
この男が殺したのか?人殺し?
頭に浮かぶ平和とは程遠い単語と、目に映る男性から流れる液体と青い紫陽花の花びら。
私の頭に、一つの単語が浮かび上がった。
「…ハイド、レンジア、」
最近巷を賑わせている悪党。
ニュースでは、何度も彼の手により行われたという殺人が報道されていて、噂では金のためなら盗み、殺し、テロまで、とにかく何でもするという、正体不明の悪党らしい。
日本では珍しく警察が何一つ手がかりを掴めないことで話題になっていて、唯一の特徴である犯行後に必ず青い紫陽花の花を散らす行為から"ハイドレンジア"と呼ばれているとか。
ニュースで耳にした情報を思い出していると、目の前の男が私に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
雨のせいで気温は低いが寒いわけではないのに、私の身体はガタガタと震えている。
「俺の事知ってんだ」
まるで迷子の子供に親の居場所を問うように、男は優しく私の目を見る。
久しぶりに私に向けてくれた優しい顔が殺人鬼だなんて、私はどこまで神に見放されればいいのだろう。神がいればの話だが。
目の前に殺人鬼がいるのに余裕ぶれるのはきっと、この後の未来がわかってしまったから。
「高校生ならわかるんじゃない?自分の運命とかそーゆーの」
男は、雨で濡れてボリュームを失い目にかかった艶のある黒髪を左手でかきあげた。
変わらず余裕のある男と同じように、私も余裕があった。
私が殺されたところで、誰も悲しむ人間はいないのだ。これからも楽しいことなんて何一つないだろうし、それならここで人生を終わらせてもらえばいい。
そう考えたら、今まで勝手に自分が背負っていた重い何かが取れたような気がして「ふふっ」と、自然な笑みが零れた。
立ち上がって、微笑んだまま殺人鬼に告げた。
「…私を___睦見梔子を、殺してください」
肩からずり落ちていたスクールバッグを雨空に向けて投げた。久々に自分の名前を言ったなぁ、これが最後か、なんて気楽なことを考える。
殺人鬼はバチャッと音を立てて地面に落ちた教科書たちに目線をやっていた。
「"梔子"、って書いて"しこ"ねぇ…。よし、じゃあ、お望み通りに」
男が立ち上がると、腰あたりからキラリと光るものを取り出した。
それを大きく振りかぶったのを見て、私は静かに目を閉じた。
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『速報です。正体不明の連続殺人鬼、ハイドレンジアの新たな犯行現場で、紫陽花の花びらに加えクチナシの香りが漂っていたとの情報があり、警察は被害者に首元と背中を同時に刺されたような痕があることから犯行は二人もしくは複数によるものであるという見解を発表しました』
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