遠くの自分

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 俺には双子の姉がいる。愛菜という名前だが、あいつは美人で誰からも愛されて、最近は高校に入ってまもなくアイドルまでやってる。超有名人だ。それに比べて、俺は両親の愛がこっちまで回ってこなかったためか、自分でもうんざりするほど性格が暗いし、ひ弱で、青白くて、目つきも悪く何を考えているかわからない。学校でも友達がいない。というより完全にひねくれているので、友達なんぞ欲しくない。こっちはお前らをぶち殺す妄想ばかりしているんだ。……たまにテロリストから救ってやってもいるが。  ところが、ところがどうしたことか、俺がテロリストに誘拐されてしまった。テロリストじゃなくてただの誘拐犯かもしれない。なんだかわからないが、登校中にでかい車に男二人がかりで連れ込まれて、薬を飲まされた。眠くなるやつかと思ったがそうじゃないみたいで、手足とかテープでぐるぐる巻きされて口もふさがれている。剥がす時痛そうすぎるだろう。  なんだかんだと言っていても今の状況は怖くて、暗い車内に運転手を含めて三人も男がいて、自分は所詮子供だし死んだり傷ついたりする覚悟なんてできてない。なんで犯罪に巻き込まれるのかわからない。想像するのは自分がアイドルの家族だから、それ絡み……アイドル業界がどうなんだか全然知らないが、社会の暗部とつながっていたりしそうではある。家での姉を見る限りは悩みもなんにもなさそうだが……。単純に金目当てかもしれない。家にいくら入ってるのか自分は知らないしたぶん親に聞いても教えてもらえない。ああ、俺は姉なんかいてもいいことなんてひとつもない人生なのに(ちょっと言い過ぎたか)、どうして悪いことにだけは合わないといけないんだ。  恐怖とか、悔しさとかで、感情が高ぶってきて、声も出せないまま泣いてしまった。涙とかよだれとかで口のテープがふやける。誘拐犯たちは俺が取り乱したのに驚いたらしい。男なのに泣くなんて情けないとでも思ってるかもしれない。しかしてめーらにだけはそんなこと思われたくないものだ。子供一人を大勢で誘拐しやがって、卑怯というか臆病というか、シンプルにただの犯罪者だろうが。  闇雲に暴れても仕方がない。テープが少し緩んでいるから、もしかしたら一回だけ大声を出すことができるかもしれないが、それはいつであるべきか。おそらくはどこかで降りて外に出されるのではないかと思うが……そう思っていたが、逆に、山奥の全然人のいないところに行かされたら終わりかもしれない。視界もほとんどふさがれてはいるが、五感を研ぎ澄ませ周りの様子を探ることにした。何やら渋滞にはまっているようで、まだ街の中みたいだが、さてどうだろう。ただ叫んでも、よくいるようなガキがふざけて大声出しているだけだと思われるだろうか。わざわざ必死に助けに来てくれる人間なんているわけない。そういう風潮がいざという時に俺を追い詰めてくるんだ。どこにいたってそうだ。  だが、救いは案外簡単にやってきた。外を見るまでもなく、頭の悪い誘拐犯共の会話が聞こえてきた。 「おい、警察だぞ。注意しろ、怪しまれないように運転するんだ」  バカが! こいつらは、まったくのバカ! 今だ、って合図を送ってくれてるようなもんだわ。さあでは遠慮なく叫ぶとしよう。 「助けて!」  自分でも驚くほどの、なんて例えるべきか、その、絹を裂くような悲鳴が出せた。それを聞いた警察が怪しんでくれて、車を止めさせて、そして転がされてる俺が発見されて……。  男の警察官の大きな腕に抱えられて、パトカーの方に乗せてもらった。犯人共は別の車で運ばれるらしい。護送ってことだな。まずは俺を出発させてくれることになった。色々と疲れたしさすがに家に帰りたいが、どうだろう? というか、まだテープに巻かれているのだが、それが嫌に強く貼られたらしく、それを剥がすのを後ろの席に一緒に座った婦警さんが苦労している。 「まったく、信じられないわね。女の子の顔にまでこんなの貼って。痛いでしょう、怖かったでしょう」  同情してくれるその優しさにちょっとほだされつつも、自由に喋れるようになった口で俺は答えた。 「あの、俺は男なんですけど」 「えっ!」婦警はちょっと驚き、だがすぐに平静を装ったようだ。「なるほど、そうだったのね。そうそう、君は、お名前はなんていうの?」 「糸崎武志ですけど」 「いいお名前ね……」  彼女はそうやって話をしながら、色々と紙に書いていく。調書というやつだろう。  話をしながら、自分も事件のことを整理しようと試みたが、さっぱりわからないとしか結局は言えることがない。急にでかい車に押し込まれて、薬を飲まされて、ぐるぐる巻きにされたんだ。会ったこともない人間だ。と思う。顔がよくわからないが、ああいう大人の知り合いなんていない。 「だからどうせ姉のアイドル活動絡みのことなんじゃないかと思ってますけど」 「断定はできませんが、考慮に入れておきますね……あなたがあの有名な子のい、弟さんなのね」 「なんか、あんまり考えたくないんだけど、俺どっかおかしいですか? 飲まされた薬は睡眠薬かと思ってたけど、どうもそうじゃないみたいだし、なんか、身体のあちこちに違和感があって、服もずれてるような気がするし、声もなんか変なんです」 「……まずは病院に行きましょう」  結論を言うと、俺は完全に、生物学上の女になっていたらしい。飲まされた薬というのが、とっても不思議なもので、SF的なそういうすごい効果で性転換してしまったわけだ。化学の発展はすごいなあ。  犯人は案の定、姉の、糸崎愛菜の熱狂的な、あるいは薄汚いファンで、その目的は驚くべきものだった。あの姉の弟なんだから女体化したらそりゃ美人になるだろう、実質本人みたいなもの、それを捕まえて何か悪いことをしたい。ということだ。いや、そこまでは警察からは言われなかったけど。そういうことだろう。  極端に優れた技術を使った極端にくだらない行為。だが、本当に自分は命が危ないところだった。それを思うと怖気がするし、そもそも、だいたい、俺の性が変わっちまった。治らないらしい。薬が謎すぎるからだ。化学の進歩を待つしかないけどいつになるやら。青春はもう終わった頃だろう。何も考えられなくなって、とにかく寝たいと思って、問題ないらしいから家に帰らせてもらった。とにかく疲れていたし、もう人生の何もかもがどうでもいいって気持ちになっていた。まあ、それは割と元からだったが。なので、気力も尽きてご飯も食べずに寝た。  早く寝たからか、朝5時に目が覚めてしまった。まだ身体の不快感があり、そもそも昨日あれだけのことがあってお風呂にも入らず寝てしまったな、と思い、入ろうと思ったが、ちょっとこれはなかなか、なんていったらいいのやら、自分の身体なのにこの他人感。とりあえず背が低くなってしまって、代わりにその分が胸に行ったらしいな。姉よりたぶんでかいな。だがそれがどうだというのか……。女体を見たところで特に興奮すらしなかった。よくわからない。率直に言って現実感がない。俺は自分の服を着たが、それは当然男物で、パジャマだ。今日は学校があるんだが、さすがに昨日の今日だし、大事を取って休むということにした。実際、だるい。むしろ行きたくないよな……学校なんてな……。今は二度寝をすることにした。  半分寝てる意識の中で、母親と姉が話しているのが聞こえた。 「どうしたらいいの、私は? 弟が誘拐されて、ああなったって、みんなにどう説明したらいい?」 「マネージャーさんとよく話し合いなさい。あの子は被害者で、犯人はもう捕まっているのよ。だからあなたのスキャンダルなんかにはならないわ、決して」 「そんなこと心配してるんじゃない! アイドル活動の話じゃなくて……ねえ、武志はどんな様子?」 「まだ寝てるわ。しばらくは休んだり、考える時間が必要なんですって」 「ああ、そう……私は休めないの? いえ、なんでもない。私も混乱してるみたい。こんなのわけがわからないよ」 「まあ、あなたも先走らないで、ゆっくり相談しなさい」  というような話をしていたようだ。父親は、おそらくすでに仕事に行っているのか。  三度寝ぐらいしてから目が覚めた。身体がまだだるい。自分の胸を触ってみたら、柔らかくて心地よい。油断すると永久に触ってしまいそうだなと思った。言葉通り表面をなぞってるだけで力を入れるのは怖い。まるで他人の身体のようで、申し訳ない気持ちにすらなる。あと、なぞってるだけの今でもかなり危ない。色々と。  お腹が空いたし、部屋を出ると、母親が食事を用意してくれた。時間としてはお昼ご飯だな。なんだか、いつもと味が違うような気がした。  翌日になると自分としては大丈夫だと思ったので、学校に行くことにした。ただ、母親と顔を合わせると面倒な気がしたので、こっそり行く。いつもの高校の制服で、男子用だが、問題はないはずだ。胸が若干苦しいが、苦しいぐらいの方が固定されていい。のではないかな……多分……。本来はこういうやつのための下着があることぐらい知ってるが、自分にはわからないし。何より、この身体に順応するのが嫌だった。  うまいこと家を抜け出して、高校までの道を自転車で走る。ギリギリ足が届いてよかった。まあもともと家族で乗れるように調整していたから……。いつもよりちょっと遅く学校についてしまった。スマホを見ると母親から連絡が着ているが、見なかったことにしよう。俺は本当は学校が好きなわけではない。ただ、ひとつは家にいるのがなんだか居づらくて嫌だった。もうひとつは、ふつふつとわいてきたあの誘拐事件と犯人に対する怒りがあった。反発していたんだ。あんなことに負けたくない。顔すら見ちゃいないが、あんな連中に負けたくない。俺は今まで通りの生活を送って、今まで通り生きてやるんだ、って。  教室に入ると同級生が静かになった。みんなの視線を苦労して無視して自分の椅子に座る。 「ちょっといい? お前……糸崎……だよな?」  お調子者の男子が机の前まで来て話しかけてきた。俺としては相手の名前も覚えていないというか、覚える気がもともとない。 「……そうだけど」  俺は不愉快さを隠しきれないように答えた。というかこんな感じがいつも通りで前から斜に構えていた。 「学校来て大丈夫なの?」  近くの席の女子が便乗して質問してきた。 「ああもう普通に元気だよ」  それだけそっけなく答えて、後はこの話をしたくなかったので、スマホを取り出してそれに目を落とした。もう話しかけてこないでくれ。  なんだかヒソヒソ話してるのが聞こえてくるが、愛菜ちゃんにそっくりだとか、すっごく顔が綺麗だとか、本人なんじゃないかとか。うるさいうるさい。話すならこっちに聞こえないようにしろ。というかもっといつものようにがやがやと雑音になっていてくれ。先生はまだ来ないのか?  無意識につい胸の置き位置がずれてるのを直した。どうも気になる。口にしづらいが、大きすぎるんじゃないかと思う……。そうしたら、ああ別人だな……って周囲が言ってて少し笑ってしまった。これを見せた方がわかるんかい。つうかこの……なんていうか、文句は言ったものの、この胸の脂肪を触りたさはすごくある。単純に触ってると気持ちがいい。自分が男だからとか性的なというんじゃなくて、やわらかいものってなんかいいと感じるのは人間誰しもあると思う。そういう点では素晴らしいものを持ってる。我ながら。でも、それってあの薬によって持たされたもので、それがやっぱり嫌。例えば傷害事件にあったとしたら傷口を見るたびに事件のことを思い出すように、この身体すべてがやはりそれを思い出させてしまうし、嫌悪感がある。  急いだ様子で先生が来た。先生は事情をある程度知っているはずだ。知った上で何を言うかはわからないが。どうだろう。かなり不安がある。米沢先生という女教師だが、直接にはあんまり話したことはない。真面目な印象があるが、だとしてその真面目さがどういう方向に行けば自分に都合がいいのか、それが自分でもわからない。わからないまま学校に来た。先生は俺の姿を見つけたようで、慌てたように近寄ってきた。 「糸崎さん? 糸崎武志さんよね? いいの? もう学校に来ても」  とささやくように先生は言った。先生はたぶん30歳そこそこだが、まあまあ美人で人気もなくもないようだ。 「もう大丈夫です。医者も身体には、まあ異常は……見てのとおりであるのはあるんだけど、なにかするのには全然問題がないとかなんとか言ってました」 「でも糸崎さん、お母さんに言わずに来たでしょう。連絡が来ましたよ。そんな格好で……」 「いつもの格好で来ただけです。今までなんにも言われたことなんてないですけど」 「でも今は……」  といって先生も言葉を探しているようだった。近頃はなにしろ色々と人間の権利がうるさいから、後々問題にならないようにと考えているのだろう。それに、俺だけにかかずらっているのもおかしいじゃないか。朝礼や授業が始められなければならない。そのはずだろう。 「ひとまず朝礼が終わったら、一緒に来てください。少しだけお話しましょう」 「行かなきゃだめですか」  本当に嫌だったので思いのままにそう答えると、他の生徒からまたふざけたような声が聞こえた。 「いいじゃん先生、糸崎はかわいいんだから、そのままでさ」  俺が一番近寄りたくないような、軽薄な男だが、その言葉にカッとなってしまって叫んでしまった。 「なにがかわいいだ、このクズ! 人間のクズだお前は。適当なことを言うんじゃねえ!」  罵倒にしても心底質が低いし言い過ぎているかと思ったが、感情が大きくて止められなかった。しかし、その後の反応は俺には予想外で、誰だかがひとり笑い始めると、クラスのみんなが笑い出したのだ。悪意は感じない。だが、それでも人が怒ったことを笑われたのには怒りを感じ、「お前ら!」と叫んで立ち上がった。だが、それ以上言うのも嫌になって、そのまま乱暴に、気持ち机を蹴りつつ(たまたま当たったように見せかけて)座った。先生がまだ正面にいようが、もう知らん。頬杖ついてそっぽを向いて、何を言われても無視を決め込んだのだ。先生もそのうち諦めて、その後は俺にはなんだかわからんうちに朝礼は終わった。  一時間目の授業はなんだったか……ここに来ることだけでいっぱいいっぱいでそこは全然考えてなかった。休んでいたから宿題なんてわかるはずもないし、教科書はある程度机に入れっぱなしのやつがあるから大丈夫じゃないかと思うが。俺はかなり勉強はできる方だ。……まあコミュ障でひねくれててその上勉強もできないんじゃいいところがないからなあ。  やはり周囲の視線を感じながらも、それに目をつぶればいつも通り、つまり誰にも話しかけられずに過ごせている。体育だけはさすがに見学させてもらった。体調がそこまで万全の自信がなかった。急に立ち上がった時にふらついて机に手をついてしまったのだ。悔しいが、どうしても自分の気持ちだけでは片がつかないこともある。急激に変わった肉体に慣れていないのだろう。女の肉体に慣れたくなんてないが、自由に動けないのも嫌だ。どっちかを選ぶなら、慣らしていく方を選ぶしかない。だがいいのか? 本当にいいのか? この身体に適当した後、俺の心は元の通りでいられるのだろうか?  ふとした時間におせっかいな女子が話しかけてきた。 「糸崎さん、ちょっといいかしら」  というと小声で耳元で囁いてくる。 「糸崎さんは、下着つけてないでしょ。まずいよ、男子が見てるよ。それに、自分でもたまに手で直してるけど、無意識かもしれないけどすごくまずいよ」 「知らないよ。そんなことしてないよ。何? こっち見るなよ。余計なお世話だ、どっかいけ」  胸を直しているっていうのをまっすぐ指摘されたことがなんだか予想外にはずかしくなって(なんにもやましいことなんてないはずなのに)、つい突き放した言い方をしてしまった。いや、いや、余計なお世話だし、勝手に見るのが悪いんだ。  だが、事実として見られている……。それを意識するとすごく嫌な気分だった。一昨日までは誰も注目してなかったのに。  また無意識に胸に手が伸びそうになって、直前で気づいて止めた。まるでかゆいのにかけないような感じだ。イライラして周りを見回すとみんな視線をさっとそらす。そらすということは見ていたということで……あ、もう限界だ。ちょっと外を歩いてこよう。  悪いことに自分は教室では真ん中で後ろ側の席だが、立ち上がって外に出ようとしたら勝手に相手が避けたので簡単に出られた。そこまではまあ良かったが、そこからは他の教室の前を通るとやはりそこの人間たちが見てくる。わざわざ窓から顔を出しているやつもいる。トイレに行こうと思ったが、なんだか無理になったのでやめた。姉の……愛菜の気持ちがわかる気がした。こんなに普段から注目されてるとしたら大変だろうな。実際にどうしてるかは知らないが。  視線から逃れるため、俺はタイミングを見て急に走り出した。そしてとっさに空いた教室に入り、机の下に潜り込んだ。ひんやりしてて静かでとてもよい。誰もいない空間とはこんなに気楽なものか。その空気を吸って、長い長いため息として出していると、外の廊下に人の歩いてくる気配がわかったので、口を閉じた。 「お、糸崎どこいった?」 「うーん、こっちに来たような気がしたんだが、わかんねえな。意外と足が速いな。まあただの女子じゃないってことか」 「あんなに必死に逃げるかね普通。まあ、かわいそうだから追っかけもこの辺にしとくか、つーか見失ったし」  彼らのそういう会話が聞こえてきた。笑い混じりに。震えてしまった。誰とも知らん彼らにビビったわけじゃない、が、怖かった。誘拐されたことを多分思い出して。そうでもないかもしれない。あいつらは高校生だろうが子供じゃない。自分よりでかい身体をした男が追いかけてくる、現実にそんなことがあるのが怖い。普通がどうとか言っていたが、普通は他人をそんな追いかけたりしないだろう。友達でもなんでもないのに。どうもいけない。気が弱くなっているのだろうか、涙が出てきた。ちゃんと、元の男の身体だったら、あんなやつら、返り討ちにしてやったのに。歯が折れようが食らいついてやった。絶対に。それを思って悔しかった。  が、結局俺にはそんな勇気はなかったかもしれない。  教室に戻るのが怖くなった。授業が始まって、廊下はしんと静まり返っている。まだ昼前だし、でも考えたら昼飯も用意してないし、もう帰りたくなった。ここで帰るのは負けだろうか? 悩みに悩んだ結果、帰ることにした。今日はリハビリみたいなもんだから……今日はこの辺にしといてやるってことだ。かばん置いたままだけど……。  幸い、財布とスマホがあるので、それで十分。それはいいが久しぶりにスマホ見たが、やはり母親から何回も電話が来ていた。家に帰るのもそれはそれで憂鬱だ。なぜこんな思いをしなければならないのだろう。俺は被害者のはずなのに……。そんな考えが出てきたが、振り払った。  途中、学校の先生からも電話が来て、今どこにいるのかというので、疲れたので帰りましたと答えた。お菓子を買って帰ろうと思った。お昼もそれで済まそう。菓子パンとかでもいいが。それでコンビニに入ったが、そういえばまだ学校の時間で制服だったな。今、いらっしゃいませをちゃんと言われただろうか。一瞬で忘れてしまった。聞いたような聞いてないような。まあ呼び止められないから問題なかろう、というかコンビニがいちいち生徒を呼び止めるわけないよな。それに事情があるんだ、こっちにも。  結局、他人は自分にそこまで興味がない、と感じながら家に帰った。母親もどこかへ行っているようで、誰もいない。買ってきたちょっとした甘さのものを食べたら、眠気が強くなってきて、いつのまにか意識を失った。  夢も見ない眠りの後、呼び鈴に起こされた。なんだろう、宅配便でも来たのだろうか。玄関カメラを覗いたら、女子が二人いて、どうやら同じクラスの子だ。 「はい、糸崎ですけど、なんですか?」 「あ、糸崎……さんですか。糸崎武志さん?  体調は大丈夫ですか? あの、かばんを置いたままだったので、届けに来ました」 「ああ、それはごめん……今からそっちに行くよ」  うちは結構お高めのマンションなので、入り口を開けたり上に昇ったり下に降りたりと面倒くさい。自分が降りた方が気が楽だ。  ありがとうと言ってかばんを受け取って、それじゃ、と帰ろうとしたら、引き止められた。 「あの! よかったら少しお話がしたいの」 「私らわざわざ志願して持ってきたんだから、ちょっとは聞いてくれてもいいんじゃない?」  若干恩着せがましい気もするが、まあ、もっともなので立ち止まった。それで、何?と聞くと、恩着せがましかった方が後ろに下がり、もうひとりが喋りだした。彼女は確か神崎さんと言っただろうか。なぜか名前だけ憶えていたが、特に深い印象はない。 「あのね、糸崎さん、今すごく大変だと思うから、困ったことがあったら相談してほしいの。もしかしたらご家族に相談しづらいことがあるのかなって思ったから、それで私たち来たんだよ」  俺はたぶん、その話を聞いてあんまり愉快ではなかった。そういう表情を察したのか、慌てたように彼女は早口になって色々と喋った。それは、女として知らないと困るだろうこととか、必要な物とか、なんだか細かすぎる話みたいでよくわからなかったが、最後にその勢いのまま言った言葉が俺の意表をついた。 「私、糸崎くんのことが、好きだったんだ。素敵だなって思って、いつも目で追ってた。こんなことになっちゃったけど……でも、私、何か役に立ちたくて……」 「えっ、えっ?」  どういうこと?ともうひとりの女子を見たが、ただの後方腕組み役みたいで助け舟も出してくれそうにない。相手も言っちゃったって感じで混乱してるようだが、こっちの方が混乱している。 「あ、あの、ごめんなさい。私が言いたかったのは、私が自分の気持ちでやってるだけだから、変なつもりじゃなくて……でも変なつもりに聞こえたよね……」 「変も何も、よく……わからないよ。全然何言ってるのかわからない。お前はどうかしてるよ。もう帰るからな」  俺はその場から立ち去った。一瞬、腕組み女が慰めていたのが見えた気がするが、どうでもいいことだ。まったくこの世界はみんなおかしいんだ。  ああそれにしても、なんて重たいかばんだ。大きなリュックに、余計なもの、使わないようなものがいっぱい詰めてあるんだ。前は重たいなんて思わなかったのに。あいつらも無理して持ってくることはなかったんだ。自分の部屋に戻ると、俺はその荷物をいらだちを込めてベッドに向けて放り投げた。つもりだったが、全然届かず床に落ちた。それが驚くほど大きな音を立てたせいで、神経がざわざわしてしまった。
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