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(4)
音はあれ以来、薫重の屋敷に立ち寄るようになった。
「長いこと神社へ奉納に伺っていたのに、どうしてお屋敷に気がつかなかったのでしょう?」
「あなたが大人に近づいたからかもしれません」
「そういうものでしょうか」
首を傾げる音に向かって、薫重がお茶を勧めた。
「さて、今日もまた音さんの『初めて』を頂こうと思いまして、パンケーキをご用意しました。音さんには、薄餅の方が耳馴染みがあるでしょうか」
目の前に置かれたのは、蜂蜜がたっぷりかけられたパンケーキ。黄金色に輝く蜜に、音の目は釘付けだ。
「まあ、素敵。先日はチョコレート、その前はキャラメル。このままでは、子豚のように肥え太ってしまいそうです」
「もしかしたら、大きく育ったところを丸呑みにしてしまおうと企んでいる、悪い神さまがいるのかもしれませんよ」
「それは大変です」
思わず吹き出した音の頬を、薫重が優しく撫でた。
「音さんが笑っていると幸せになれます。まるで甘いものを食べているときみたいに。優しい香りのするあなたには、ずっと笑っていてほしい」
(そんな、恋文のようなことをおっしゃるなんて!)
頬を染めながら、音はいただきますと手を合わせた。自分の家では食欲もわかず、食事をとれないことさえ多いのに、ここでは不思議なほどお腹が空いてしまう。それは珍しい洋食の甘味だからというだけではないはずだ。
虚弱体質の役立たずと裏で罵られていた音が、屋敷に通うようになってからは病気ひとつしない。生きる力を注ぎ込まれているように薫重は音を満たしてくれる。
(これが、恋というものなのかしら。それなら、叶うはずのない恋ね)
パンケーキを前に固まってしまった音を前に、薫重が話しかけた。
「前から悩んでいたのですが、この地を離れようかと考えているんです」
突然の話に、音はフォークを取り落とした。小さく震える音の手を、薫重がそっと握り締める。
「ついてきてはいただけませんか?」
「私が、ですか?」
「着物にも洋装にも似合うように準備してきました」
指にはめられたのは、白金の指輪。捻梅の中心では金剛石が輝いている。それが意味することを考えて、音はめまいがした。
「どうか、これから先もずっと僕と一緒にいてください」
「……はい」
「それでは、あなたが成人を迎える日にこの土地を出ましょう。これからは、何か困ったことがあったら、僕のことを呼んでください」
嬉しげに引き寄せられ、薫重の香りに包まれた。
甘いお菓子につられて、知らないひとについていってはいけない。それは小さな子どもだって知っていること。けれど、音は夢を見たいと思った。
例え最後は苦界に売り飛ばされることになったとしても、あの家で静かに朽ちていくよりはきっと幸せなはず。
薫重の腕の中で、音は淡く微笑んだ。
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