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(7)
音はとんだ疫病神だ、それは母が常日頃から口にしていることだった。音が生まれてから、立花家が預かる土地ではなかなか雨が降らなくなったからだ。
「それは、お前自身のせいだろう?」
吐き捨てた母の前に立ちふさがったのは、薫重だった。
「薫重さん!」
あのひとは止められない。そう思って叫んだ音だったが、彼女の母は真っ青な顔で手を振り上げた姿勢のままぶるぶると震えていた。
「今すぐ音に返すがいい。お前が自身の娘に勝手に与えた、彼女の本当の名を」
「やめて!」
「彼女の名前は、『雨音』。天にあまねく優しき恵み。命を支える水の声」
「薫重さん、なにを……」
音はへたりこんだ。それは、大和で決してやってはいけないことだ。名前を奪うということは、相手の命を、意思を奪うということ。それは母も、当然わかっていただろうに。
「何がいけないの! そこの娘に、『雨音』だなんてもったいない。下賎の女の娘が、わたくしの娘である『有子』と同じ二文字だなんておこがましいわ」
「お母さま?……」
「その声でわたくしを呼ばないで。その目でわたくしを見つめないで。いつまで経っても、思い出すわ。あの憎たらしい泥棒猫を。お前なんてあの女と一緒に……うぐっ!」
「それ以上、音を、雨音を侮辱するな」
ああ、これは母から父への復讐だったのだ。音は唇を噛んだ。
「名を奪い、勝手に名乗ったところで、本来の意味など失われてしまうのに。愚かなことだ」
無理矢理に奪われ並べられた「有」と「雨」は、「䨖」に変わり、雨ではなく過剰な晴れ間をもたらした。
そう指摘されても、母の目はぎらついたままだ。自身の娘と妾の子どもを入れ換えて育てるくらい、彼女はすべてを憎んでいたのだ。
妾の子として、自分の子どもを可愛がる父の姿は愉快だっただろう。正妻の子として、愛した妾の子どもを無視する父の姿は痛快だっただろう。
なんて悲しい、いびつな家族。けれどその事実に音は、ほっとした。ここまで壊れてしまったら、もう家族ごっこをする必要はないのだから。
じりりりりと電話が鳴った。滅多なことでは鳴らないベルの音が、こだまする。母屋の電話の音が、離れまで聞こえるはずがないのに。
「さあ、早く出た方が良いのではありませんか。取り返しがつかなくなってからでは遅いですよ」
真っ青な顔をいよいよ白くして、母が駆け出した。
「今のうちに、行きましょう。それとも、父親に会いたいですか? 本当のことを知れば、彼はあなたを愛してくれるかもしれません」
――音、どうか許しておくれ! 今まで本当にすまなかった。ああ、こうやって見てみるとお前はあのひとによく似ている――
音の耳に、幻聴がよぎる。初めて父の目に映るかもしれないというのに、音は少しも嬉しいとは思わなかった。
「私の母親が誰であれ、もともと半分は血の繋がりがあったはず。けれど、今までは道端の石ほども興味は持たれなかった。ならば、このまま捨て置いていただくのがよいでしょう。私は、雨音。音という娘など、はじめからいなかったのです」
音もとい雨音の言葉に、薫重が満足そうにうなずいた。
部屋の窓を開けてみれば、外はまだしとしとと雨が降っている。細かくけぶる雨が、火照った肌に心地いい。
これは恵みの雨だ。ひび割れた土地に水がぐんぐんと染み込んでいくように、名前を取り戻した雨音のもとに力が集まってくる。
ああ、普通のひとはこんな風に息を吸うことができたのか。そんなことに驚きながら、雨音は足を踏み出す。その隣には、優しい目で彼女を見つめる薫重の姿があった。
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