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(1)
口の中に、甘く不思議な味わいが広がった。
(……ああ、喉の渇きが薄れていく。これは、一体なに?)
目を開ければ、洋装の美青年がこちらをのぞき込んでいた。こぼれ落ちる銀の髪が麗しい。ゆっくりと瞬きをして、音は小さく息をはいた。
「まあ、極楽というのはなんとも洋風なところなのね。どうしましょう、こちらの殿方に言葉は通じるのかしら」
記憶にあるのは、神社までの道すがら睡蓮を見ていたところまで。それが目を覚ましてみれば、信じられないほどモダンな部屋の中にいる。手触りのある夢を見られるほど、音は舶来品に詳しくない。ならば、ここはあの世としか思えなかった。
「お嬢さん、ここは彼岸ではありませんよ」
「……それでは、拐かしでしょうか。申し上げにくいのですが、拐う人間をお間違いですよ。私は確かに立花家の長女音ではありますが、跡取りになるのは妹の有雨子のほうです。両親が私のために身代金を払うことはありません」
「音?」
彼は自分の存在さえ知らなかったのかもしれない。首を傾げる青年を見て、音は胸が痛んだ。
「どうぞこの件はなかったことにして、私を帰してくださいませ。決して誰にも漏らしはしません。それがお互いのためでございます」
淡々と頭を下げながら詫びれば、青年が怪訝そうな顔をした。
(困ったわ。私たち家族のことを話しても信じていただけるかどうか)
青年が頬をかいた。
「僕は人拐いではありません。熱射病にかかって我が家の前で倒れていたあなたを発見し、家の中にお連れしたのです」
「まあ、それはご親切にどうもありがとうございます。大変な失礼をしてしまいまして……」
「いいえ、かよわい女性が見知らぬ男と一緒なのですから、心配されるのも当然です。どうぞ、お気になさらず」
穏やかな声音に、音はほっとする。
「ありがとうございます。すみません、今は何時頃でしょうか……」
部屋の中には、時計が見当たらない。帰りの時間が遅くなれば、また母に叱られるだろう。心配する音に、青年は顔を曇らせた。
「先ほどまで倒れていたのです。もう少し休んで行ったほうがよいでしょう」
「ですが、言いつけられた用事も終わっておりませんし……」
「ああ、あなたが運んでいた荷物のことですね。それは、後から一緒に運ぶということでどうでしょう。まだ時間もそれほど経ってはいませんし」
「……私、用事の内容をお伝えしていたでしょうか」
「いいえ。とはいえ、この先にあるのは、神社だけですからね。用事の内容は予想がつきます」
目を丸くしていると男がちりんとベルを鳴らした。可愛らしいお仕着せを着た女性が、何やらお茶の準備を始めている。
「まずは腹ごしらえといきましょう」
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