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 家に着くなり、母親に強く抱きしめられた。  あんまり指先に力を込めるので、ピアノを弾くのに支障が出るんじゃないかと、凛のほうが心配したくらいだ。  ひとまず、入浴して身体をあたためるよう促される。  シャワーを浴びて、身なりを整えると、ダイニングテーブルで父と母が待っていた。  夕食を用意する余裕もなかったらしい。冷凍ピラフが皿の上で溶けて、テーブルの隅に追いやられていた。 「凛、こっちにおいで」  父が隣の椅子を引く。  家に着いたら、何があったか話すよう言われていた。    思い出すだけで胸が痛くなる出来事。  けれど凛は、父と母にすべてを話した。  ランに付きまとわれたところから、カハハギ様の島へ行って帰ってきたところまで、ほぼすべてを。  ただし、「流生を助けるために提示された条件」だけは、どうしても告げることができなかった。  流生と引き換えに、誰かを犠牲にする。  凛が何を課されて、これから何をしようとしているのか、両親に知られてはならない。  凛の話を聞く間、瞼をふせていた母だったが、少し強張った表情で、意を決したように口を開いた。 「凛、あのね……実は。わたしも昔、カハハギ様に会ったことがあるの。あれはこの世のものじゃないわ」 「え……お母さんも?」 「そう。あなたが産まれる前の話よ」 「何なんだ、そのカハハギ様ってヤツは」  父が口を挟む。  初めて耳にする言葉のようだ。   「わたしも詳しく知ってるわけじゃないの。ただ昔、長町南のおじいちゃんから聞いたのよ」  母は仙台出身だった。  長町南のおじいちゃんは、凛から見ればひいおじいちゃんにあたる。凛とは面識がない。自分が産まれるずいぶん前に、死んでしまったからだ。 「おじいちゃん、言ってたわ。カハハギ様は、川のある場所なら、どこにだってあらわれる。季節は問わない。だけど小雨の降る、日暮れどきにしか姿を見せなくて、見える人と見えない人がいるんですって。選ばれた人とそうでない人、と言いかえたほうがいいかしら……」 「どういう人が選ばれるの」 「分からない。でも強いて言うなら、強い願いを持った人」 「お母さんは、何か願いごとをした?」 「……したわ。けど、しちゃいけなかったの。願えば代償を払うことになる」  母は、ふうと長い息を吐いて、凛を見つめた。   「ごめんなさい。これ以上は、あなたたちには話せない。どうしても。お願い。言えないの。流生のことはなんとか……なんとか、する。だからこれ以上、凛はカハハギ様にかかわらないで」  母はそれだけ言うと、席を立つ。  もともと体調も良くなかった上に、心労が重なった。話している間も辛そうだったし、今日は早く寝かせてあげたほうがいいかもしれない。  凛は、母が寝室へこもるのを見送った。  ずっと眉間にしわを寄せていた父だったが、母の離席と同時に、苛立ちをにじませ、うなる。 「凛の話も、七子の言うことも……ぼくには信じられない。信じたくない。ふたりが悪いってわけじゃない。きっと、流生がいなくなって、気が動転してるんだ。だからそんな夢を見た」 「夢なんかじゃ、なかったよ」  凛は非難を込めた眼差しを、父親に向ける。   「いや。夢だよ。警察には、すぐ捜索願いを出す。明日、直接小学校にも行って話をしてくる。流生の交友関係を聞いて、悩みごとなんかもあったかもしれないし……やれることは全部やり尽くさないと。それでも、どうしても見つからなかったらーー。凛、父さんともう一度、話をしてくれないか」  父の思いつめた表情を見て、凛は悟った。  お互いが、お互いのために、きっと隠しごとをしている。  凛が、流生の身代わりが必要だということを、ふたりに話さなかったように。  家族だからこそ打ち明けずに、胸に秘めている何かがある。  ーー普通だと思ってた私の家族、私の世界。  全然、普通なんかじゃなかった。
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