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1-4
雨あしが強くなる前に、凛と流生、そして朔夜は、自宅の庇へすべり込んだ。
スカートのすそがしっとりと水気を含み、少し冷たい。
『白石ピアノ教室 体験レッスン受付中♪ 幼児から大人まで』
白いレンガの二階建てが、凛と流生の家だ。
同時に、母が講師をつとめるピアノ教室でもある。
玄関先の目立つ場所に、『生徒募集中』のスタンドボードが置かれている。
凛はインターホンを押した。
しばらく待つが、応答がない。
いつもならすぐに、母の柔和な笑顔が出迎えてくれるのに。
不審に思いながらも、仕方なく、凛は自身の鍵でドアを開けた。
「ただいまぁ。お母さん、いるんでしょ」
声を張り上げ、母親の姿を探す。
足元に目をやると、母の白い靴がそろえられている。ということは、家にはいるはずだ。
凛はローファーを脱ぎ、正面玄関から入ってすぐのピアノルームを覗く。
「凛。白石先生、ここには、いないんじゃないか」
「おかしいな、そんなはずないよ。ちょっと私、二階見てくる。朔夜たちは練習室にいてくれる?」
「あ……! お、お姉ちゃん待って。僕もいく」
朔夜とふたり、取り残されたくなかったのだろう。流生が慌てて凛のあとを追いかけてきた。
階段をあがり、リビングに視線をめぐらす。
照明が暗い。
テレビだけがチカチカと白く光っている。
近寄ってみると、テレビ前のソファに、ぐったりと横たわる人がいた。
母だった。
顔色が悪い。眉を寄せてしんどそうにしている。
「お母さん、どうしたの。大丈夫?」
「うぅん、だめ。頭痛がひどくて」
「頭痛?」
頭痛がひどいという割に、母はお腹をかき抱くように丸まっている。
「今日は他の生徒さんにも、レッスンはお休みってメール送ってるの……。凛、あなたにも連絡したんだけど、見てない?」
「え。うそ。……ほんとだわ」
凛は、買ってもらったばかりのスマートフォンを確認する。母からのメッセージを見逃していた。
「病院に行ってきたら? タクシー呼ぼうか」
「そこまでじゃないわよ、すぐ治ると思うから。もしかして、朔ちゃんも来ちゃった?」
「うん、今、下にいる」
「あらぁ……」
「いいよ、ふたりで自主練するから。お母さんは寝てて。朔夜に伝えてくる」
「あ、僕は」
ランドセルをおろした流生が、不安げに姉と母親を見比べた。
「流生はお母さんを見ててあげてね」
薄暗い部屋の中で、ふいに、テレビ番組が切りかわる。
水難事故のニュースだ。
場所は東京都青梅市、多摩川。
少年ふたりが流され、片方だけが助かった。
凛たちの住まいからはずいぶん離れているが、同じ多摩川での事故というのが心にかかる。
最近はやけに、この手のニュースが多い。
夏休みも終わり、川遊びも落ち着くはずなのだが。
もしかして、コレを見て母は具合を悪くしたのかもしれない。凛は直感的にそう感じ、テレビの電源を切った。
代わりにほんの少し、部屋の照明を明るくする。
再び、朔夜のいるピアノルームへ戻った。
彼は、グランドピアノ前の椅子に腰かけていた。
「朔夜、連弾しよう」
「先生はどうした?」
「体調が悪いみたい。ごめんね、今度振替レッスンしてくれるって」
「分かった」
朔夜の「分かった」は、連弾への承諾ではなかった。にもかかわらず、凛は彼の右隣を占領し、ピアノを弾きはじめる。
どこか上すべりして聴こえるのは、この曲が、ふたりで弾いてはじめてひとつの音楽になるからだ。
凛の奏でる高音パートだけでは、物足りない。
朔夜がため息をつくのがわかった。
自分勝手な幼馴染にあきれているようだ。
それでも、鍵盤に指を置いてくれたのは、彼なりの優しさか、それともーー。
折り重なる音の波は、心地いい。
まるで相手を呼び合っているかのよう。
凛と朔夜。
閉じ込められたその時間は、言葉を交わすより遥かに、互いのことを正しく感じられる気がした。
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