1-4

1/1
前へ
/36ページ
次へ

1-4

 雨あしが強くなる前に、(りん)流生(るい)、そして朔夜(さくや)は、自宅の(ひさし)へすべり込んだ。  スカートのすそがしっとりと水気を含み、少し冷たい。 『白石(しらいし)ピアノ教室 体験レッスン受付中♪ 幼児から大人まで』  白いレンガの二階建てが、凛と流生の家だ。  同時に、母が講師をつとめるピアノ教室でもある。  玄関先の目立つ場所に、『生徒募集中』のスタンドボードが置かれている。    凛はインターホンを押した。  しばらく待つが、応答がない。  いつもならすぐに、母の柔和な笑顔が出迎えてくれるのに。  不審に思いながらも、仕方なく、凛は自身の鍵でドアを開けた。 「ただいまぁ。お母さん、いるんでしょ」  声を張り上げ、母親の姿を探す。  足元に目をやると、母の白い靴がそろえられている。ということは、家にはいるはずだ。  凛はローファーを脱ぎ、正面玄関から入ってすぐのピアノルームを覗く。 「凛。白石先生、ここには、いないんじゃないか」 「おかしいな、そんなはずないよ。ちょっと私、二階見てくる。朔夜たちは練習室にいてくれる?」 「あ……! お、お姉ちゃん待って。僕もいく」  朔夜とふたり、取り残されたくなかったのだろう。流生が慌てて凛のあとを追いかけてきた。  階段をあがり、リビングに視線をめぐらす。   照明が暗い。  テレビだけがチカチカと白く光っている。  近寄ってみると、テレビ前のソファに、ぐったりと横たわる人がいた。  母だった。  顔色が悪い。眉を寄せてしんどそうにしている。 「お母さん、どうしたの。大丈夫?」 「うぅん、だめ。頭痛がひどくて」 「頭痛?」  頭痛がひどいという割に、母はお腹をかき抱くように丸まっている。 「今日は他の生徒さんにも、レッスンはお休みってメール送ってるの……。凛、あなたにも連絡したんだけど、見てない?」 「え。うそ。……ほんとだわ」  凛は、買ってもらったばかりのスマートフォンを確認する。母からのメッセージを見逃していた。 「病院に行ってきたら? タクシー呼ぼうか」   「そこまでじゃないわよ、すぐ治ると思うから。もしかして、朔ちゃんも来ちゃった?」 「うん、今、下にいる」 「あらぁ……」 「いいよ、ふたりで自主練するから。お母さんは寝てて。朔夜に伝えてくる」 「あ、僕は」  ランドセルをおろした流生が、不安げに姉と母親を見比べた。 「流生はお母さんを見ててあげてね」  薄暗い部屋の中で、ふいに、テレビ番組が切りかわる。  水難事故のニュースだ。  場所は東京都青梅市、多摩川。  少年ふたりが流され、片方だけが助かった。    凛たちの住まいからはずいぶん離れているが、同じ多摩川での事故というのが心にかかる。  最近はやけに、この手のニュースが多い。  夏休みも終わり、川遊びも落ち着くはずなのだが。  もしかして、コレを見て母は具合を悪くしたのかもしれない。凛は直感的にそう感じ、テレビの電源を切った。  代わりにほんの少し、部屋の照明を明るくする。  再び、朔夜のいるピアノルームへ戻った。  彼は、グランドピアノ前の椅子に腰かけていた。 「朔夜、連弾(れんだん)しよう」 「先生はどうした?」 「体調が悪いみたい。ごめんね、今度振替レッスンしてくれるって」 「分かった」  朔夜の「分かった」は、連弾への承諾ではなかった。にもかかわらず、凛は彼の右隣を占領し、ピアノを弾きはじめる。  どこか(うわ)すべりして聴こえるのは、この曲が、ふたりで弾いてはじめてひとつの音楽になるからだ。  凛の奏でる高音パートだけでは、物足りない。  朔夜がため息をつくのがわかった。  自分勝手な幼馴染にあきれているようだ。  それでも、鍵盤(けんばん)に指を置いてくれたのは、彼なりの優しさか、それともーー。  折り重なる音の波は、心地いい。  まるで相手を呼び合っているかのよう。  凛と朔夜。  閉じ込められたその時間は、言葉を交わすより遥かに、互いのことを正しく感じられる気がした。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

55人が本棚に入れています
本棚に追加