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序章
【七子のはなし】
もう、十数年も前のこと。
あの頃のわたしの浅はかな行いについて、そして罪について、今ここでお話ししましょう。
わたしはおぞましい化け物に、願ってはならないことを願ってしまいました。
どんなに打ちのめされていようと、神にも祈りたい心地であろうと、人ならざるものにすがってはならなかったのです。
亡き祖父の言葉を、忘れたわけではありませんでした。一言一句、息継ぎの間合いさえ、はっきりと記憶していました。
『小雨が散る宵の口、川向こうにぼんやりと島が見えることがある。
そこへ続く、見覚えのない橋に気付いても、決して渡ってはいけないよ。
それはカハハギ様のおわすところだから。
そこにいるものと、目を合わせてはいけない。
願ってもいけない。
願えば叶うだろう。
けれど、それと引き換えに、お前は大切な者を差し出すことになるだろう』
今思えば、それは決して、偶然ではありませんでした。
祖父の話から想起される古い橋の輪郭が、確かな存在感を持って、わたしの目の前にあらわれたのです。
カハハギ様は知っていたのでしょう。
わたしが当時、どうしようもない鬱屈した心を抱えていたことを。
藁をもつかみたい心境であったことを。
そしてわたしは、その心の隙につけ入られたのです。
肩に雨粒が降りかかり、視界は冷たくにじんでいました。橋の先は霞んで、ただ暗闇が広がるばかり。
橋はどこへ続いているのか、興味を惹かれたものの、普段だったら絶対に、そんな不気味な場所へ向かうはずがありません。
だってわたしは、人一倍、こわがりでしたから。
しかし、このときは、招かれるようにして、もはや後戻りできないところまで、足を踏み入れてしまっていたのです。
橋の先には、小さな祠がありました。
わたしは手を合わせました。
ぴた、とこめかみに水滴が落ち、わたしは顔をあげました。
すると、見上げるほど大きな、大きな女が、正座してこちらをのぞき込んでおりました。
でっぷりと太った女は着物姿で、わたしの瞳をじいっと見つめておりました。
まばたきもしないのが異様におそろしくて、わたしは叫ぶことも、身じろぎすることもできませんでした。
女は、息をひそめるわたしの腹を、その太った指でひと撫でしました。
身を貫くような痛みが走りました。
内臓が引きずり出されるようなーーなんて陳腐な表現でしょう。このときの苦痛を言いあらわす言葉が見つかりません。
わたしは獣のような叫び声をあげました。
泥の上をのたうっていたのは、永遠だったのか、ほんのひとときだったのか。
ただ、わたしは生きて戻ってきました。
正気に戻ると、橋を渡る前の、川縁で膝をついて、雨に打たれておりました。
あれは何だったのでしょう。
あまりにも無情な現実から目をそむけるために、わたし自身がつくり出した幻だったようにも思います。
けれど、あの湿った空気や、川の濁った臭いは、今でも真実味を持って、この身体に染みついているのです。
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