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岡部は油で軽く絵の具を落とした後の筆に、石けんで泡を立てていた。
山村は、聞き間違いか、冗談の類いだと思ったが、彼の表情は真剣そのものだ。
「なんだよ、やる気のレンタルって」
「スマホのアプリなんだけど、"レンタル・モチベーション"ってのがあってさ」
「聞いたことないけど」
「誰かに紹介してもらわないと入れられないアプリなんだ」
ほら、と岡部がスマホを操作すると、直ぐに山村のスマホが震えた。招待メッセージが届いている。
「やる気って欲しいときにないよな。俺も同じだよ」
「嘘だ。岡部はいつもすらすら描いているじゃないか」
「だからさ、このアプリでやる気借りているんだって」
"レンタル・モチベーション"を使えば、欲しいときに欲しいやる気を借りることができる。
岡部の説明はわかったけれど、山村にはどうも現実感のない話に思えた。
「口で言ってもしっくり来ないよな。試しに使ってみろって。その方が早い」
「え。うーん……まあプラシーボみたいなものか」
言われるがまま、山村は岡部の招待メッセージからアプリを入れた。
アプリを立ち上げ、ニックネームを登録すると、『やる気をレンタルしますか?』と表示される。
「どうすればいいんの?」
「画面をタップすると借りたいやる気を選べるから、そこで絵を描くモチベーションってのを探してみ」
「はぁ。あぁ、ジャンルとかあるのか。えっと趣味か? 勉強……?」
「キーワード検索のが早いぞ」
「……本当だ。ありがと」
絵を描くモチベーション、と出てきた項目をタップすると、『本当に借りますか』ポップアップが表示されて、"はい"と"やっぱりやめる"を選ばされる。
山村は気にせず、そのまま"はい"を選んだ。
「あっ」
「え。まずかった?」
「あーいいんだけど、一応説明しておけば良かったなってさ」
「まだ何かあったの?」
岡部の言葉に、山村は怪訝な顔を浮かべて聞き返した。
「レンタル・モチベーションって言ったろ。それに借りますかってさ」
「うん」
「だから、あとで返さなくちゃいけないんだよ」
「ふぅん」
山村が何とはなしに相づちを打ったとき、彼の胸に何かが湧いてきた。
最初、心臓がおかしくなったのかと思えば、胸ではなく、頭に大量の血液が流れてくるような感覚へと変わる。
目をぱちぱちと何度かしばたかせ、彼は自然と言葉を口にした。
「絵、描かないと。よくわかんないけど、描かないといけない気がしてきた」
「お。さっそくやる気出てきたみたいだな」
手伝っていた洗いかけの筆を岡部に返し、山村は慌てて美術室へ戻った。
イーゼルに向かうや否や、真っ白だったキャンバスに絵の具をどんどん載せていく。
そのまま、息もせぬほど集中して、気づけば大方まで描ききっていた。
あとは乾くのを一度待ってから、細部を少し修正すれば完成するだろう。
山村は描いた絵と、汚れた手を見比べながら、満足そうに肯いた。
翌日の放課後、山村は美術室で岡部に会う直ぐお礼を伝えた。
「すごかったよ、レンタル・モチベーション。あれいったいなんなんだ」
「詳しいことは俺も知らないけれど、本物なのは間違いないぜ。俺も何度も世話になってる」
山村も、昨日自分に沸いた感覚が単なるプラシーボ効果には思えない。
描きかけの絵を完成させようと、また絵に向かう。山村はいつも最初やる気が出ない方だが、こうやって一度始めるとそのまま乗って描き上げられるタイプだった。
――だけど。
「あれ? やる気、すぐ出ると思ったのに」
筆を持ったまま、山村の手が止まってしまう。
「言ったろ、レンタルだって。借りたあとに、同じやる気がまたわいてきたら今度は返さないといけないんだ」
「じゃあ僕のやる気は……」
「そ。昨日借りた分の代わりに返したってわけ」
「そんな。困るよ、まだ完成していないのに」
顔を曇らせる山村に、岡部は軽く笑う。
「まあ、本来なら上手いこと一日で終わらせられるタイミングで借りるのがベストだな。俺もなるべくいざってときだけ借りるようにしてるし」
「えぇ。じゃあまた新しくやる気にならないとってこと?」
「ま、そうなるな。でも返却期限が切れなかっただけよかったじゃないか」
――全然良くない。
と山村はため息をつくが。
「返却期限って?」
「借りてから一ヶ月。それまでに借りたやる気と同じものを返さないと債務者になるから、気をつけろよ」
「債務者? なんだよ物騒だな」
「実際物騒なもんだ。同じやる気が返せるまで、ありとあらゆるやる気が取り立てられる」
「ありとあらゆるって……そんなことしたら、何のやる気もなくなっちゃうだろ」
岡部は神妙に肯いた。
「ああ。無気力人間になるな。ほら、加瀬っているだろ。いつも窓から外を眺めてぼうっとしてさ」
「まさか加瀬って」
「噂じゃあいつも先輩からレンタル・モチベーションを聞いて、それでうっかり債務者になって……そのまま無気力人間になっちまったって話だ」
山村の脳裏に、加瀬の眠そうな顔が浮かぶ。
覇気のない彼女が、いつまでも何もしないままぼうっと過ごす様子が想像できた。
「だから元からわかないようなやる気は借りるなよ。例えば、山村は自主的に宿題やろうなんて思ったことあるか?」
「ないね」
「なら借りるなよ。うっかり借りたら、そのまま永遠にモチベーション債務者になる」
――自分も、加瀬みたいに?
そう考えると、山村の背がぞくりと震えた。
「気をつけろよ」と岡部が言い、山村は完成間近の絵の前に残された。
山村はしばらく一人で悩んでいたが、ふと閃いた。
また借りればいいのだ。
スマホを操作して、昨日と同じように"レンタル・モチベーション"で絵を描くやる気を借りる。
何回かタップしただけで、直ぐにやる気がわいてきた。
「よおし」
そのまま山村は手早く絵を完成させた。
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