重い鎖

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一条練(いちじょうれん)の楽しみは読書だ。空想の世界で剣豪や刑事になりきって遊ぶ。小説の醍醐味だ。部屋に積んであった本はすべて読んだ。だから一条は今、時間の合間をみて馴染みの古本屋を覗きに来ている。家族経営の小さな古本屋だ。店は小さいが、文庫本の品揃えは良い。 一条には自由に使える時間は少ない。だからあまり呑気に立ち読みも出来ない。文庫本を選び、それを買う。あとはそれを常に懐に入れて持ち歩き、兄貴分らの目を盗んで貪り読む。ヤクザも下っぱともなれば何をするにも気を使う。油断をすれば兄貴分たちからどんな難癖をつけられるかわかったものではない。 警察小説と海外ミステリを一冊ずつ手に入れた。読むのが楽しみだ。一条はささやかな楽しみを心の支えにしながら、楽しみとはほど遠い場所――組事務所を目指す。今夜は電話番として事務所に泊まらねばならぬ。 夕方六時。駅前の商店街は買い物客や勤め帰りのサラリーマンらで賑わっていた。一条は堅気の連中と目を合わせぬように地面を見つめながら、事務所を目指して足早に歩いた。 「あら、こんにちは」 女の声。軽やかな鈴を思わせる響きに振り向いて見ると、茉莉(まり)がそこにいた。馴染みの古本屋の娘だ。よそ行きの格好をしている。そういえばいつもは店にいるのに、今日はいなかった。どこかに出掛けていたのだろう。 「やあ、こんにちは。偶然ですね」 言ってから、もっと気のきいたことは言えないのかと自分を責めたくなった。だが茉莉は、そんな一条をはにかみながら見上げている。茉莉は平均よりやや背が低く、一条は背ばかりが大きい若者だった。 「お出かけですか」 「はい。今日は一日暇をもらって、友達と映画を観て来ました」 「映画ですか。いいですね」 「あっ、でも友達と言っても女の子の友達ですよ」 「ああ、そうなんですね」 と言ったきり、一条はあとの言葉が続かず、黙り込んでしまった。茉莉もモジモジして下を向いている。 「あの――」 一条は沈黙を破って言った。 「は、はい」 茉莉が顔を上げた。 ――今度一緒に食事でもどうですか? 一条はその言葉を言い出せず、酸欠になったように喘いだ。 そのときだった。 「おい、一条」 どすのきいた声が商店街に響き渡った。兄貴分の田川謙だった。ドス謙の異名を持つ危ない目をした男だ。茉莉の目にもっとも触れさせたくない男が、よりによって今声を掛けて来た。
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