しゃん。しゃしゃん。しゃりん。

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 それはTの工房を出て十年ほどが過ぎた頃だった。一人で暮らす私の家にTからの小包が届いたのは。  どうして住所を知っているのだろうと訝りながら開封すると、中には一本のガラスペンが収まっていた。手紙の類も何もなく、一本のガラスペンだけが。ただ、見た瞬間、私の全身に鳥肌がたった。ぴんときたのだ。五感すら超えた何かが私に強く訴える。これは私が渇望していたガラスペンだと。 「とうとうできたのね……」  感慨深い気持ちでそっと手に取る。ペン全体を覆う趣き深いラインは雨粒が描く軌跡のようで、触り心地は水に手をひたしたかのようだった。内部には透明な水滴がいくつもおさめられていて、軽く揺らすとぶつかり合い、ちかっと光を放った。そして、しゃん、と鳴った。しゃしゃん、と鳴った。  インク瓶にペンの先端を差し込むと、ペンは腹をすかせた赤子のようにあっという間にインクを取り込んだ。  色づいたペン先をそっと紙の上に載せる。そしておもむろにきゅっと右に動かした。  真っ白な紙に色が走る。紙の上を水が流れるがごとくインクが走っていく。書き心地にも非の打ちどころは一切なかった。  だが。 「……もうこんなものいらないのに」  窓を開け、ガラスペンを庭に向かって放り投げる。からりと乾いた青空に、真っ赤なインクを吸ったガラスペンが弧を描いて飛んでいった。その向こうには海に沈んでゆこうとする赤い太陽が見えた。インクと同色の、何よりも赤く美しい太陽が。そしてTのことを愛しく、憎く思った。Tのようにいつまでも一つのものを追い求めていたかった人生だったから。  しゃりん、とガラスが砕ける音が聴こえた。 了
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