しゃん。しゃしゃん。しゃりん。

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 Tの妻を辞めた私はガラスペンの制作に日々を捧げるようになった。目的は当然、究極のガラスペンを作ること。そう、他人に作ってもらおうなんて考えが甘かったのだ。欲しいものは自らの手で掴むべきだったのだ。  そして今日も私はバーナーを握っている。Tの工房の片隅で、ペンにするためのガラス棒を専用のバーナーであぶり、溶かしている。  溶かしながら、私は強く願う。どうかすばらしい雨音がこのガラスに溶け込みますようにと。そして祈るような気持ちで柔らかなガラスに造形を与えていく。  イメージは大事だ。脳内に描くのは儚い水の流れ、そして細くたおやかな水が柔らかく流れていく様。だからこそ、ちょっとしたことで生まれる飛沫の粒は光のようにきらりと輝かねばならない。鳴る音はささやかながらもしっかりと響かねばならない。造形とガラスの品質だけで理想は具現化すると私は確信していた。着色どころか小細工も必要ない。 「ああ……」  完成品を想像するだけで甘いため息が漏れるのはいつものことだ。バーナーの炎で火照る体は汗ばみ、期待に満ちた胸は早鐘を打つ。今にも目の前にイメージ通りのガラスペンが生まれるのではないかと、焦る気持ちで時折指が震える。完成したガラスペンに使うインクもすでに決めてある。ラメ入りの淡いシルバーのインクだ。  ただ、期待が裏切られるのもいつものことだった。 「……また失敗だわ」  間抜けな方向に曲がってしまったガラスには、もう雨音が宿ることはない。わかるのだ。この形のペンからは雨音は決して聴こえないと。次の工程、高温となったガラスペンをゆっくりと冷やしていく作業に移ったことはこれまで一度もなかった。 「だいぶ上達しているよ。この曲線の捻り具合なんて僕よりも滑らかじゃないか」  Tのなぐさめは何の役にも立たない。Tには随分親身に作り方を教えてもらったし、工房や道具を使わせてもらっているが、私が望むものは今も昔も一つしかないのだ。  そんなTだが、彼は独身時代から引き続き、どうでもいいガラスペンばかりを作り続けていた。頭上を覆う木々から差し込む陽光のような、淡い黄金の光をまとうペン。夕暮れ時と夜が変わる刹那のような、(だいだい)色と紺色が入り混じる危いペン。他にも、いろいろ。草原、海、雲に風。扱うモチーフは数えきれない。 「君には他に作りたいモチーフはないの?」 「そんなものはないわ」    Tの問いを私は一刀両断した。私にとって、美とは雨音に他ならないからだ。  雨によってあらわされる音、そして雨に付随するものだけが私にとっての至上だった。私にとっての神だった。だから崇拝すべき存在がそこにあるのに、それ以外のものに目を向けるべきではないと信じていた。それゆえTの制作に対する姿勢には反発しかなかったのである。 「でも……」 「いいから。私のことはもう放っておいて」  とうとう私はTを拒絶した。そして美を具現化することだけを生きがいにガラスをバーナーであぶり続けた。  *
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