泡沫の言祝ぎを

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 その戸を叩いたのは人魚だった。  いや、正確に言えば、もう人魚ではなかったのだろう。深海暮らしによく似合う、真っ白でひ弱な足。光沢たっぷりの髪はつやつやと腰に纏いついている。量が多くて、ちょっと触れたくなった。  仄暗い瞳は生気がなくて、虚ろだった。せっかくタンザナイトのように綺麗なのにもったいない。フンと鼻を鳴らして雨に濡れたその女を、ちょいちょいと手招いた。 「とりあえず、入んな。いつまでもそこにいてくれちゃ、来る客も来ねぇや」  女は少し躊躇いつつも、恐る恐るその店に踏み入った。  乾いて水気のない薬草が幾束も天井からぶら下がっていて、その強烈な臭いに、うっと鼻をつまんだ。不気味に揺れる明かりは、ほんの少ししか辺りを照らさない。曇天模様の夕方じゃ、ちっとも役目を果たしていなかった。  怪しげな魔術書やら、誰のものかも知らぬ骸骨やらが床に乱雑に転がっている。いかにも、魔女の家といった風体だ。そのがらくたのような扱いを受けている物たちを、ひょいひょい飛び越えながら、奥に居座る、不機嫌そうな魔女に近づいた。精巧なドールが、爛々と光るビーズの瞳でじっとこちらを見つめている。 「あんた、誰さね。まず名乗ってくれや」  魔女は、面倒くさそうに手を払った。  女は困ってしまった。のろのろと瞬きをする。視線をあっちこっちに右往左往させ、迷った末に、そっと魔女の手を取った。  ざらざらとして固い手に、つ、と一本、指を立てる。 『元人魚のルーナです』  そう綴ると、突然の行動にぎょっと目を剝いていた魔女も、納得がいったように、ははあ、と笑った。 「聞いたことがある名だねぇ。ああ、そうとも。ウンディーネからこの前聞いたさ。海底に棲む人魚姫さまが、地上の男にホの字だってねぇ」  にやにやといやらしく笑う魔女に、女は困ったように眉尻を下げた。  その何の面白みもない反応に、魔女はまたつまらなそうな顔に戻って、ざあざあ土砂降りの外に目を向けた。 「それで、何の用さね。確かにあたしゃ、報酬さえ貰えりゃ、なあんでもレンタル屋さ。で、も……」  く、と喉奥で笑って、また魔女は女を振り仰いだ。 「王子サマのご寵愛を得られない、身一つで飛び出した姫サマに、払える対価があるのかねぇ」  雨はやむ気配がない。静寂を押し潰すかのように雨音が響いて止まなかった。埃っぽい部屋の床に、すっと足を滑らすと、ずきりと足が痛んだ。傷一つないその足をかばって一歩近づき、瞳を歪ませ、そっと後ろに隠していたものを差し出した。  魔女の目が、途端に、こぼれ落ちんばかりに見開かれた。 「あんた……それ、真珠貝のナイフじゃないかね!」  刃は粉のような真珠できらきらしていて、指を滑らせるとつやつやしていた。曇りなき輝きが、ちろちろ揺れる明かりよりもよっぽど遠くまで辺りを照らし、燦然としている。  この女、どういう了見で来たのだろう。信じられない、といった心地で、女を見上げる。このナイフが、どれだけの価値を持つのか知らないのか。世間知らずのお姫さま。得意げな彼女。 『おねえさまが、くださったのです』  綴られた手のひらを呆然と見て、途端に、腹を抱えて笑い転げた。 「そうさね、そうさね!ああ、史実と同じだ!最初に陸に上がった人魚姫さまは、惚れた男に振り向いてもらえなくって、そんで、お姉さま方にナイフを貰うんだったねぇ。そんで、命と天秤にかけても?男を殺せなくって?哀れ泡になった馬鹿女さ!アッハッハッハ!」  人とは――いや、人ではないけれども――過ちを繰り返すものなのだ。滑稽で滑稽でたまらなく面白くって、頬が引き攣っている女に構わずひいひい床をのたうち回った。  笑って、笑って、ひとしきり笑うと、魔女はその手に杖を召喚し、全体重をかけつつも何とか立ち上がった。 「んで?あんたは何をお望みだい」  こんな高価なものをいただいておいて、馬鹿にして嘲笑っただけで帰すわけにはいかないだろう。ここはレンタル屋。なあんでも貸す店だ。そう。強大なる魔女の力によって、一夜の夢を見れる場所。  不気味なほど上機嫌にくふくふ笑う魔女に、女はニッコリと微笑んで、指を滑らせた。 『声』
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