泡沫の言祝ぎを

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 雨はもう上がっていた。  ルーナは息を弾ませて、タンザナイトを希望に光らせていた。  太陽も届かないような深海の居城。いっぱいの兄弟姉妹と身を寄せ合って、ひそひそと内緒の秘密のお話。  ここからずぅっとずぅっと上の世界に、光り輝く世界があるんだって。どのくらい?そりゃあもう、チョウチンアンコウでさえ、びっくりするくらいの。きゃあ、素敵。それでね、人間がいっぱいいるの。素敵な言葉で話すんですって。泡みたいに綺麗で、美しくって、真珠よりもまあるい言葉。聞いてみたいな。どんな声なの?どんな姿なの?会ってみたいなあ。  お誕生日にお許しが出て、初めて海面というものに顔を出した。ぎゅうぎゅう押し込まれるような深海とは違って、どこまでも自由で、軽やかな世界。何とまあ、空気の澄んでいること!ルーナは鳥というものを初めて見て、歓喜のままに手を振った。  波とはこんなに荒れ狂うものなのか。変化のない深海では体験できないもので、きゃあきゃあはしゃぎながら、時には波に流され、時には抗って、奔流というものを楽しんだ。  船を見て、恋をした。見たことない宝石を散りばめて、とってもセクシーに着飾っている素敵な殿方。ハンサムで、ああ、あの瞳の美しさっていったらない。まるでお星さまのようにきらきらしていて、ルーナはひと目で恋に落ちた。  船から落っこちてしまった王子さまは、空から落ちてきたお星さまみたいで、とても魅力的だった。でも、人間は水の中では生きられないのは知っていたから、浜辺にそっと寝かせておいて、尾びれを翻して深海へ帰った。  そして、魔女さまに頼んだ。お願い、私を人間にして。  あの人のそばにいたい。うっとりするほど綺麗な言葉で、ぞくぞくするほど低い声で喋りかけられたいの。  そうかいそうかい。  なら――対価はいただくよ。 ***  足が痛いってことくらい、声が出せないってことくらい、どうってことないと思っていた。  涙が出るほど辛くったって、あの人が私を見つけてくれて、お城に招き入れてくれただけで、踊りだしたくなるくらい足が軽くなるの。心配そうに覗き込むその瞳も、お話を聞かせてくれるテノールの声も、何もかもが素敵だった。  でも、だめだった。  人は所詮、中身なのだ。  得体の知れない女。王子さまのご厚意で匿われたはいいけれど、何もできない役立たず。フリフリの可愛いお洋服を着た人たちから、冷たい目を向けられた。くすくす笑われて、いやしい女、と囁かれた。  貞淑なドレスが窮屈で、好きな恰好をしたら、あの人の頬が引き攣った。珍しいお食事が嬉しくて、思わずお腹いっぱいになるまで食べたら、太ってしまった。王子さまは早々にルーナに愛想を尽かして、お上品で美しい、貞淑な王女さまのもとへ行ってしまった。  自業自得だ。己も運命も恨めない。  でも、私は人魚。愛されなきゃ死んでしまうのに。どうしよう、どうしよう。ああ、足が痛い。もう歩けない。あるきたくない。あんなに望んだものなのに。もういらない。帰りたい。泣いたって慰めてくれる人はいなくって、せめてもと、浜辺で啜り泣いた。  ルーナ、これを使いなさい、とおねえさまは言った。髪はうんと短くなっていて、あんなに危ないから嫌といった上の世界に来ている。あんまりびっくりしてしまって、腰を抜かした。 「これで王子をころしなさい。そしたら、泡にならなくて済むのよ」  必死で、懇願しているような眼差しだった。お転婆な妹でも、しなれるのは嫌だったのだ。  ルーナは泣いた。帰れるのだ。私の故郷、帰りたかった私の居場所に。何度も何度も心の中でありがとうを言って、お城に帰っていった。 (でもね……ごめんなさい、おねえさま)  きらきらと雫をこぼして、ルーナは崖へと走り抜く。 (私、やっぱりだめだったわ)  愛した人をころすなんて、ルーナには無理だった。  ベッドで一緒に眠る王女さまと、王子さまを見たら、到底ころすなんて無理だった。ナイフをそっと懐に隠して、一目散に城を抜け出して、森へと駆け抜けていった。  可愛い可愛いメイドさんが、身を寄せ合って、ひそひそ、ひそひそ、内緒内緒の秘密のお話。 「森の奥に、なあんでも貸してくれるレンタル屋さんがあるそうよ」 「魔女が貸してくれるのよ。うんと高価な対価が必要なんですって」 「命とか?」 「やだあ、怖い」  魔女さんは意地悪だったけど、でも、ルーナに声を貸してくれた。泡みたいに綺麗で、美しくって、真珠よりもまあるい声。  期限は、ルーナが死ぬまで。どうせ朝日が昇ったら泡になるのだから、存分に堪能するがいいさ、とケヒケヒ笑っていた。 (あのね、あのね、私ね、おねえさま)  森が途切れる。崖の隅っこが近づく。  ルーナは故郷を愛していた。  静かで落ち着く深海。真っ暗で、お互いの手を握らなきゃ、ここがどこだかもわからない。その代わり、みんなの手はぬくぬくしていて、あったかかった。  意地悪なメイドさんも、窮屈なドレスも、お上品なマナーもない。自由で、自由で、何よりも心豊かな故郷。 (私ね、ありがとうを伝えたいの)  森が途切れた。真っ黒な海が、恐ろしげにうねっている。  ぱしゃん、と崖にぶつかった潮は、一瞬だけ白くなって、また真っ黒になっていく。  どこが恐ろしい?肺いっぱいに、潮の匂いを吸い込む。  何も変わらない。私の故郷じゃないか。  歌は人魚の本分。  人魚姫は、美声を轟かせた。 ***  月が綺麗な夜だった。  星も幾千幾万もきらめいていて、銀河のよう。イルカもクジラも海面に顔を出し、歌姫の美声に誘われ、崖を見上げ、聞き惚れていた。  ある者は目を輝かせ、ある者は感嘆の息を漏らし、ある者は涙を流して……そう。私も、嗚咽なく泣いていた。  妹が、たった一人の妹が、愛を謳っている。  故郷への愛を。残り僅かなその命で。  足も声も、その髪も瞳も、命さえ、何もかもが借り物だというのに。神からの、母なる海からの、おぞましい魔女からの借り物だというのに、そのすべてを誇るかのように歌っている。  もうすぐ消えてなくなってしまうのに。  悲しき定めを、ほんの一夜で霧散するすべてを、妹は、ルーナは、ああ、どうしてそんなに、美しく魅せるの? (その声も、もう、貴女の声ではないのに……)  涙が出るほど、妹は、この世に誕生できたことを祝っていた。 ***  少しの間で良かった。  食い食われる果てなき輪廻。当然人魚も含まれる世の決まり。そこから外れてしまった私に、どうか贖罪を。  愛してくれた家族に感謝を。  慈しんでくれた海に愛を。  借り物の声でも構わない。  だって、この心は、本物だもの!
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