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 目玉が右へ左へと動く。  誰も自分を見ていない。ここには誰も存在しない。  透明がその形を作るのは、色を反射するからだ。透明がそもそも目に見えないというのなら、色も反射しようがない。誰も手を突っ込んでそれを取り出せず、誰も絵の具を塗りたくれない。  久々に病院に行き満ちた数日後、水瀬は以前よりひどい不安感を自覚した。  まやかしだ、キャンバスの特性だ、自分はここにいるし、変わりはしない。透明人間ではない。昨日だって今日だって仕事してきたじゃないか。ご飯も食べたし、シャワーのお湯だってこの体を通り抜けていない。  そう事実を並べるけれど、ぐうっと胸を押されるような気分。  どんなに自分であろうとしても、キャンバスなのだから色を貰うべきだ。ギャラリーのように普通には生きられないのだ。  そうして自分を否定する。  色。  色は、  色を、  何  何を飲めば  病院に行かなければ疑似色素は貰えない。家にはあるはずもないのに、必死にそれを探してしまう。そんな時、電話が鳴った。 『もしもし水瀬さん? 坂本です』  すっと耳に入ってくる声。動く目玉はピタリとやんで、 「どうも。こんばんは」  まともに返事をした。 「疲れた顔してますね」  玄関に入って顔を合わせれば、坂本は正面から水瀬を見てそう言った。  美容院に行く時と同じように電車に乗って、違う駅で降りる。ついた先は、電話で誘われた坂本の家。家族連れでも住めそうなマンションの一室は、坂本が人気の美容師なのだとうかがわせる。促されたリビングのソファに座れば体が沈み込んだ。 「貧血気味?」  坂本の指先が短い前髪を掃う。額からこめかみへと移り、水瀬の瞼を下げた。 「手を見せて」  ソファの前、水瀬の前に座り込んだ彼は、次に言われるがままに出された手を引いた。手のひらを裏返し、爪を見る。 「白っぽい」  水瀬はされるがまま。心は落ち着いている。電車に乗っていた時にはしていた動悸が今はしないし、ゆっくり呼吸できるようになった。坂本の声がよく聞こえる。意識がクリアになっている。 「白髪は最近どうですか」 「どうって……」 「増えても嫌じゃない?」 「それは、はい。昔からあるものだし、今更だって思えるようになりました。この姿が俺なんだって」  以前はこれっぽっちも思ってもいなかったことが口をつく。それをひたすらに気にして生きてきたのに。そのおかげで坂本にも会ったというのに。 「そう、それはよかった」  坂本は笑う。 「これからきっと、もっと白くなるだろうから」 「――え?」  水瀬からは坂本の頭がよく見えた。根元まできれいに真っ白で、頻繁に手を入れているんだろうと予測できる。自分のまだら髪とは違う。 「嫌です? 白くなるの」  それにはさっき答えた。嫌じゃないと。なのに坂本はまた同じことを聞く。 「いいえ」 「真っ白になったとしても?」 「おじいさんになっても真っ白になれるかどうか」  坂本が言ったのだ。綺麗なグレイヘアは珍しいと。年を取ったからといってこのまま真っ白になれるとは思えなかった。はげるほうが早いかもしれないし。 「今すぐできますよ」 「カラーですか?」 「染色。嫌じゃなければ」 「でも俺、もうこのまま生きていこうって決めて」 「じゃあ、髪ではないところを染めましょうか。それとも加減する?」 「ヘアカラーですよね?」 「染色です」  坂本は膝を立たせ、水瀬の手を握りこんだ。 「え」  初めての感覚だった。  触れたところからはっきりと、色が入ってくるのが分かる。全身を走る血管のように、道を知っているものだ。自分の形が作られる。釉薬を塗るように、見えない魂の形がとられる。 「坂本さんあなたは、」 「水瀬さんの白髪はね、オレの色ですよ。あなた、オレのセット(運命)だ」 「どういう……。染色(ステイニング)したら結びつくかもしれないけど、そんなことしてないし、坂本さんがペインターだってことすら今知って」 「セットなんてそうそういないからね。知られてないんじゃないですか。オレも知らなかった。けどわかるよ。これはオレの色。最初に見た時から分かってた」 「俺はキャンバスで、だから透明で」 「透明だけど、ここに色がもう出てる」 「だってこれは小さい頃からですよ。昔から、会ったこともないときからだ」  ペインターがキャンバスを染め、定着させると、魂が結び付くという。そして注がれた色が髪や爪に出る。さらに、結びつけば離れていても安定を得られると言われている。今まであった不安感も焦燥感も、キャンバス特有のそれがなくなると。でも二人はまだそんな関係ではない。 「だから、半分(・・)なんでしょ」  根元まで白い坂本の髪。ヘアカラーとして脱色していたのなら、少しくらい地毛が見えてもいいのではないか。彼がペインターだからそこに強く色が出ていた? 自分の白髪は、結びついていないから"半分(まだら)"だった? そんなことがあるのか、無いとは言い切れない。それを証明するだけのセットの数がいない。 「まぁいいや。オレのとこ来たら楽になったでしょ。今後もそうやって使えばいいよ」 「楽には……本当に楽にはなった。坂本さんは俺に色をくれていた……?」 「ちょっとだけね」  とても納得のいく話だった。疑似色素でもなく、シールでもなく、直接注がれていたのなら確かに効果があったのだろう。全身マッサージなんてのが体にしか効果がなかったのもよくわかる。求めていたのは坂本の、ペインターの色だから。  坂本は呆ける水瀬の隣に座ると、その体に手を回す。 「触られるのが嫌じゃない?」 「全然。美容院でヘッドスパしてもらってた時みたいに心地いい」 「セットだろうと嫌ならしない。でもそうじゃないなら」 「嫌じゃない」  何度目かの否定。 「じゃあ今後は、オレの色全部受け止めて」  ああ、そうなのか――。水瀬は深く頷いた。  初めて会ったときに語っていたのは、彼自身のことだったのだ。 [終わり]
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