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(一) 別れと再開
夜が明けた事を喜びあう小鳥達の声が、古く痛んだ窓越しに聞こえてくる。
昨晩の強い雨が嘘のように、カーテンを開け放った窓ガラスを通り、朝日に照らされた窓の木枠が居間の床板に影を伸ばす。
「ルークス、いつものお茶でいい?」
はつらつとした彼女の声が、森の中にある小さな小屋に響いた。
街に建ち並ぶ家とは比べ物にならない程の、粗末な家。
それでも、使い勝手のいい小さいながらも整理された清潔なキッチン。
朝食後に飲むお茶の支度を始めた愛しい人が、水を満たしたケトルを火にかけた。
二人で暮らし始めて一年半、すっかり馴染んだ朝の一時。
ティアは、何の疑いも抱かず僕に背を向けている。
( そうだ、何も変わらない何時もの朝だ )
握りしめた小剣を背後で抜き放ち、振り向くタイミングで心臓に突き入れる間合いを何度か図る。
予言の魔女の言う通り、ティアが僕を少しだって疑っていない事は、今朝の変わらぬやり取りで確認済み。
それはそうだ。
一年半もかけて、少しずつ少しずつ、彼女の心に入り込んだのだ。
疑われないように、優しく、真綿で包むように大切にし、甘言を囁き続けてきた。
全て、予言の魔女の言う通りに…。
名前を呼べば、きっと彼女は振りかえる。
なぜ呼ばれたのかを問うように、金色の癖のある髪を肩に乗せながら小首を傾げ、あの泉のように澄んだ青い瞳を和らげて。
いつもの、愛らしい笑顔を薄めの唇に浮かべ、真意を隠した醜い僕の顔を、愛おしげに見上げるのだろう。
( …迷うな、ティアは生きてはならない! )
彼女は、傀儡の魔王の器だ。
このまま十八の誕生日を迎えると、魔王の魂に導かれ否応なしに覚醒するだろう。
彼女では無くなった彼女が、たくさんの魔物を産み出し、操り、全てを破壊し尽くす。
人々は食まれ国は陵辱され、恐怖と飢えと疫病で退廃し、それでも何とか生き残れた一握りの人々から、彼女は増悪の対象として長く後生に語り継がれていくのだ。
史上最悪の厄災、人の屍の山を玉座にした傀儡の魔王、ティア・ルーセント、と。
予言の魔女が口にした事は、未来視だ。
決して、間違う事は無い。
ただ一つ救いがあるならば、それが三年前の未来視だというところだろうか。
その未来を現実にしないため、予言の魔女からもたらされた計画が、この方法だった。
「なぁ、ティア?」
震える手で小剣を握り直し、魔女に言われたように名前を呼びながら、小剣の切っ先を定めた場所に向けて出せるよう歩きだす。
この世界は、まだ地獄の底にある。
先代魔王が産み出した魔物の多くが、いまだに蔓延るこの世に、新たな魔王の器が生まれた事は、人類にとって種の滅びを宣言されたに等しい。
魔王として覚醒したティアが、新たな魔族を次々と産み出せば、もはや残された人々だけで魔物を討伐するなど、不可能に近くなる。
だからこそ、棒弱な器である内に倒すのだ。
そして、現存する魔物を討伐し、次の器が生まれるまでの数百年間に、滅びかけた国を建て直し、次世代の器に対し備える事。
それが今世の王族に生まれ、勇者に祭り上げられた僕の使命。
最初は簡単だと思った、予言の魔女に持ちかけられた計画は極単純なものだったから。
行商人だった両親の命を山賊により奪われ、幼い頃に孤児となったティアは、寂しい独り暮らしを余儀なくされていた。
そんな彼女に取り入るのは、容易いこと。
両親と同じ行商人に身をやつし、魔物に襲われ商品も失い命からがら逃げ延びた、哀れな男を演じるだけだ。
怪我を理由に、粗末な小屋に居座る。
最初は、城と違い寒さや虫に悲鳴を上げたくなったし、彼女への賛美も、ただの演技でしかなかった。
だが、森の中にあるこの小さな家で二人きり、支え合い、笑い合いながら寒い冬も暑い夏も共に暮らしていく内に、嘘が誠に変じてしまうなど僕自身考えもしなかった結末だ。
自分の気持ちを自覚してから、何度も繰り返し自分自身に言い聞かす。
( 迷うな…国を、民を救え )
自分には、この世界で暮らす顔も知らない多くの命を、自国の民を救う使命が課せられているのだから。
それでも、ふと考えてしまう。
顔も知らない人達の命と、目の前で笑う愛しい少女の命を、自分がどちらを重く感じるのかと、つい天秤にかけてしまいたくなる。
心の中ではとっくに答えが出ているのに、それは決して叶えてはならない夢。
何度打ち消しても、消しきれない考えに、運命に逆らいたい衝動に、ティアを失いたくない心の慟哭に、気付けば、突き出す寸前だった小剣の切っ先をずらしてしまう。
( ああ…迷うなんて僕は何てバカなんだ! )
小剣とはいえ、引くにはもう遅い。
軌道をずらすこと、それが精一杯。
この軌道なら、振り返るだろうティアの身体ギリギリを掠め、二の腕の近くの空を刺すだけだ。
ティアは驚くだろう、恐怖を感じ、僕から逃げ出すかもしれない。
それでもいい、追いかけて捕まえて、全てを打ち明けてしまおう。
ティアは魔王で、僕は勇者なのだと。
何とか、ティアに理解してもらうのだ。
許して貰えるなら頭を地に擦り付けても、王族の地位を捨てて、この森で二人きり住んでも構わない。
謝り、打ち明け、理解してさえ貰えば、二人でもう一度、予言の魔女の元へ行き、改めて未来を見てもらえば良いのだ。
三年前とは、ティアと僕の関係性も変わった。
同じように未来も変わり、ティアが死なずとも済む未来が見えるかもしれない。
「…っ!?」
瞬間、剣が皮膚を突き破り、肉を貫いた感触に全身の血が引く。
内蔵を貫き、骨を断ち、ティアの薄い身体を貫通させた鈍い手応えの後、生ぬるい鮮血が小剣の腹を伝い、握り締めた柄から滴り、ポタポタと音をたてて床に流れ落ちる。
「なぜだ…?」
信じられないまま、誰にともなく呟く。
予言の魔女は確かに言ったのだ、名前を呼べば彼女は振り返ると。
だから、その向きから見た心臓を狙え、と。
その予言を信じ、わざと逆に剣先を変えた。
なのに、なぜ、ティアは振り返らなかった?
名前を呼べば、彼女は振り返るのではなかったのか?
なぜ、予言が外れた?
あり得ない、あり得ない、あり得ない!
混乱する僕の思考を読んだように、振り絞るように紡がれる、血に濁されたティアの言葉が、その答えをくれた。
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