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2.消えた彼との出会い(篠原花菜)
「さあ、やるか」
花菜は、もう一度気合いを入れ、彼が使っていた部屋に入った。
机の上には、無造作に置かれた写真。椅子にかけられたままのくたびれた上着。そして、しまい忘れた雑誌の束。
あの日から止まったままの風景がそこにあった。
久しぶりに入ったその部屋は、今だに彼のにおいがするような気がして、花菜は、少しだけ胸が苦しくなった。
それでも花菜は、自分を奮い立たせるようにカーテンを開け、彼の部屋に光を入れた。
花菜がまず手をつけたのは彼の服達だ。服達と言っても彼の服の数は少ない。
服にあまり執着せず、とにかく着られればいいと言う人だった彼は、多少くたびれていても新しい物を買わずにそのまま着続けていた。
「また、その服来てるの?」
「何で?駄目かな?」
花菜が呆れて問いかけても、彼は、いつも不思議そうに返すだけだった。
「いや、駄目でしょ。そのTシャツ、襟元とかかなり伸びてるよ。いいかげん、そのTシャツはそろそろお別れの時期だとおもうけど」
「そうかな…。でもさ、せっかく洗濯したんだし、もったいないから、今日は着るよ」
花菜が彼の言葉に呆れたようにため息をつくと、彼は、慌てて花菜に約束した。
「本当に、今日で最後にするから」
しかし、花菜は彼がその約束を守らないであろうと言うことが分かっていた。
そういいながらも、彼は、きっとまたその服を洗濯機に放り込んでしまう。そして、もったいなからと、またそのTシャツを着る。そんなループが続いてしまうのだ。
だから、いつまでも買い替えない彼に怒った花菜は、くたびれた服を見つけると、無理やり彼を服屋に連れて行っては、新しい服を見立て買っていた。
そのため、彼が持っているほとんどの服は、花菜が見立てたものばかりになっていた。
(そういえば、初めて会った時も酷い格好をしてたな)
くたびれたTシャツを見つけた花菜は、その時の事を思い出すとふいに笑いがこぼれた。
そのTシャツはまさしくあの日着ていたTシャツだった。花菜がどんなに捨てる事を勧めても、彼は、このTシャツだけは捨てなかった。
改めて見ると、やはりTシャツはかなりくたびれていた。この服を着て外を歩くとはある意味、彼は、勇気があるとさえ、花菜は思ってしまった。
(でも、人のこと言えないか。私も他の人から見たら、あの日の私の装いは、変わって見えたと思うしね…)
花菜と彼が初めてあったのは、5月後半。場所は、早咲きの紫陽花が綺麗に咲き誇っている公園だった。天気は、雲一つない快晴。誰もが、雲一つない空の下を楽しそうに過ごしていた。
しかし、花菜は違った。彼女は、手に傘を持って歩いていた。すれ違う人が不思議そうに自分を見ている事に花菜は、気がついていた。
(まあ、普通そうだよね)
花菜は、すれ違う人の顔と綺麗な青空を見ながらそう思っていた。
しばらく、公園の中を散歩していると、途中で花菜は、別の意味で変わった人とすれ違った。
その男性は、紫陽花の写真を一眼レフカメラでひたすら撮っていた。ここにくるまで紫陽花の写真を携帯のカメラで撮っている人はたくさんいた。
しかし、その人は何やら難しそうな顔をして、ファインダーを覗いては写真を撮っていた。しかも撮影した写真は、満足出来ないようなものだったようで、何度も何度も撮り直しをしていた。それにお世辞でも綺麗とは言えないくたびれたTシャツとジーパン姿の彼は、カップルや家族連れが多い公園の中で異彩を放っていた。
花菜は、そんな彼の姿に目を引き付けられ足を止めたが同時に自分にも他の人からたくさんの視線が向けられている事に気がつくと、慌てて足を進めた。
公園をしばらく歩いていると、さっきまで晴れていた空が次第に曇り始めた。
そんな空を見上げ、花菜は、人に気がつかれないように、そっとため息をついた。
(やっぱりね…)
花菜のそんな気持ちを肯定するかのように、やがて空からは大粒の雨が降り始めた。花菜は、持っていた傘を一人広げると、何事もなかったように歩みを進めた。そんな花菜の横を、人々は、突然降りだした雨から逃げるように走りすぎていった。
そして、人の気配が消えてしまった公園の中を、花菜は一人歩き続けていた。
雨は、子どもの頃から花菜に良くも悪くもいろんな感情を抱かせる存在だった。それでも、雨に濡れる草木の匂いも傘を打つ雨の音も、花菜は昔から大好きだった。
だから、今でも花菜は雨の中を散歩するのが好きだった。
子供の頃は、そんな花菜の気持ちを理解してくれる人もいたが、大人になるとなかなかそんな人にはなかなか出会えなかった。だからこうやって休日に、突然降りだした雨の中を一人散歩するのが花菜のひそかな楽しみだったりするのだ。
花菜が、公園をぐるぐると散歩していると、大きな木の下に雨宿りしている人影を見つけた。
(大丈夫かな?)
近づいてみると、さっき写真を撮っていた男性だった。
「あの、大丈夫ですか?」
花菜の声に、その男性はビックリしたように花菜を見た。
「今日雨が降ると思っていなかったから、傘持ってきていなくて…」
そう言って彼は恥ずかしそうに笑った。胸にタオルにくるんで必死に守っているのはきっとカメラだろう。
しかし、このままここにいても雨がしばらく止みそうもなかった。それに、濡れたTシャツは彼の体温を奪っているのか、寒そうにしていた。
「あっちに東屋があるのでひとまず移動しませんか?よかったら、この傘に入ってください」
花菜は彼に持っている傘を示した
「いいんですか?」
「大丈夫ですから。早く傘に入って一緒に行きましょう。雨もまだ止みそうもないし、それに、そのままだとそれ濡れちゃいませんか?」
花菜が、彼の胸を指差すと、彼は、納得したように、ありがとうございますとお礼を言うと、傘へと入ってきた。
「本当に助かりました。俺の方が背も高いし、傘は、俺が持ちますから案内してもらえますか?」
花菜は、うなずくと彼に傘を渡した。
「それじゃあ、お願いします」
「はい」
その時の彼の笑顔は、まるで雨の中咲くひまわりのようだった。
彼は、東屋に到着すると椅子に大事そうにカメラをおいた。
「カメラ大丈夫でしたか?良かったらこれも使ってください」
花菜は彼に持っていたタオルを渡した。
「大丈夫そうです。本当にありがとうございます」
彼はタオルでカメラを優しく拭いた。そんな彼の様子を見ていると、突然彼が顔をあげた。
「傘をちゃんと持っているなんてすごいですね。今日、天気予報で雨降るって言ってました?」
彼からきた突然の質問に花菜は固まってしまった。
「どうしました?」
「…なんです」
「え?」
彼に花菜の小さな声は届かなかったようで、不思議そうな目で彼は、花菜を見ていた。
「私、雨女なんです。だから出先に雨が降ることが多くて」
花菜は、恥ずかしそうに、そして少しだけ悲しそうに笑った。すると突然、彼はそんな花菜の手を握ってきた。
「俺と友達になって下さい」
花菜は突然の事に驚き、彼の手を振り払うと少し後退りした。そして、立て掛けてあった傘を持つと慌てて東屋から走り出した。
「待って!」
後ろから彼の引き留める声が聞こえたが、花菜は振り返る事なく走り続けた。
これが花菜と彼との出会いだった。
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