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6.神様のいたずら(篠原花菜)
その日は、本当に朝から予想外の事が起きた。
「え!そんな、困ります…」
休日の朝、花菜にかかってきたのは引っ越しを延期して欲しいという不動産会社からの電話だった。
「欠陥ってどういう事ですか…」
まさかの来月に引っ越しを考えていた住宅に欠陥が見つかり引っ越しが取り止めとなってしまったのだ。
「本当に申し訳ありません」
「もう、来月には退去すると連絡してしまっあ後なんですが」
「もちろん了解しております。ですから、修繕が完了するまでお住まいになる住宅はもちろんこちらでお探しいたします。篠原さまのご希望に合う別物件を必ず急いでお探しいたしまので」
「引っ越し延期の話は分かりました。でも、一時とはいえ、別物件に引っ越すならば、ちゃんと自分で確認したものをしっかり探したいので、新しい転居先の準備はいりません」
「そうですか…」
「その代わり、またこのままここに住み続けたいのですが」
「分かりました!」
不動産屋も急いで似たような物件を探すと言ってくれたが、花菜はそれを断り、今のアパートに住み続ける事を選んだ。
その後、不動産会社から今のアパートの大家さんに電話してもらい継続を了承してもらったが、それ以外の手続きなどは自分でしなくてはいけない。花菜は慌てて今のアパートにそのまま住み続けられるよういろいろと電話したり、予約していた引っ越し業者にキャンセルを入れるなど朝からバタバタする事になった。すべての手続きが済み、やっと息をついた時にはお昼近くになっていた。
ふと外を見ると、花菜のモヤモヤした心とは裏腹に広がる空はどこまでも澄み渡っていた。
「せっかく天気もいいし、気分転換にご飯でも食べに行こうかな…」
花菜は、ため息をつくと、バックを掴み外へと踏み出した。外に出た花菜の上には雲一つない青空が広がっていた。
(雨も嫌いじゃないけど、今日は青空が嬉しいな)
青空に沈んだ心を励ましてもらいながら、花菜は歩きだした。空が、まるで自分を励ましてくれているようなそんな感覚に少しだけ、花菜は嬉しくなった。
しかし、空は花菜の味方ではなかったらしい。
「はあ、やっぱり今日は厄日かも…」
悲しい事に、花菜は黒く染まっていく空を見上げ一人ため息をついた。
もしかして、気分転換だからといつもとは違うところでランチをとるため、数駅先まで足を伸ばしたのが間違いだったのだろうかと花菜は少し後悔した。
目的の駅について、外を歩き出す頃には、空は少しずつ曇りだした。そして、しばらくすると、空から雨が降り始めた。
それでも、いつもの事だと思い、花菜は鞄から赤い折り畳み傘をだすと傘をさして歩き始めた。もともと、花菜は雨の中の散歩は嫌いじゃない。だからその時もしばらくすれば初めて来た町並みを楽しむ心の余裕もうまれた。
「ちょっとレトロな建物とかもあってこの町好きかも」
気がつけば花菜は、朝のモヤモヤを忘れてウキウキとした軽い足取りで町を歩いていた。
でも、花菜が知らないうちに空がいつの間にか黒く厚い雲に覆われていた。そして、花菜が空を何気なく見上げた時だった。雷とともに、突然、空からの雨は大粒となって降りだした。やがてそれは、豪雨となって地上に降り注いだ。
「きゃー!」
「何だよ!」
「ウソ…、最悪!」
歩く人々も突然の豪雨に驚き、近くのお店などに慌てて逃げ込んだ。そして花菜も、さすがに折り畳みでは耐えられそうにないその雨の強さに、近くの喫茶店の軒下へと逃げ込んだのだ。
花菜は傘を畳むより先に、なかなかやみそうにない空を見上げては濡れた服や髪を持っていたタオルで拭きながらため息をついた。
(さすがにこの中歩く訳にはいかないよね…)
その時だった。
「良かったら、お店の中に入りませんか?」
お店のドアの方から声がした。
花菜は、傘をあげその声の主を確認した。そして、そこに現れたまさかの人物の顔を見て、花菜は驚いて固まった。だってそこには、花菜がずっと会いたかった人が立っていたからだ。
(えっ…、修哉なの…?)
花菜が驚いて固まっていると、その人がまた花菜に話しかけた。
「そこにいてもきっと濡れてしまうと思いますよ。良かったら中で休んでいかれたらどうですか?」
その笑顔は花菜の知っている修哉にそっくりだった。
でも、彼は花菜に気がついていないようだった。
(私だってわからないの?この人は修哉じゃないの?もしかして、ただ似ているだけ?)
花菜の頭の中はそんな疑問でいっぱいだった。
だから、花菜は自分の中に浮かんでいる疑問に答えを見つける為に、彼の提案を受け入れる事にした。
「すみません。ありがとうございます」
花菜は、彼の言葉に甘えて、修哉に似た彼が支えてくれているドアをすり抜けて、喫茶店の中へと入っていった。
花菜は、案内された席に座ると 濡れた服や髪の毛をひとまず持っているタオルで拭いた。
(ひとまず落ち着かないと…)
花菜が、緊張した気持ちを隠すように下を向いていると、頭の上から声がした。
「そのタオル、もしかしてもう濡れてしまって役に立たないんじゃないですか?」
店員の彼は、花菜にホットコーヒーとタオルを持ってきてくれた。
「あの、これは?」
「タオルはみなさんに渡していますから気にしないでください。あと、コーヒーはサービスです」
彼は、内緒だと小さな声で言った。
「そんな、お金払いますから」
花菜が慌てると彼は、テーブルの近くにしゃがみこみ、内緒話のように小さな声で話し出した。
「実は、今マスターにコーヒーの入れ方とか習っていて、目下練習中なんです。そして、実はこのコーヒーは俺が入れたやつなんです」
花菜が、彼の言おうとしている意味が分からず首を傾けた。
「もし良かったら試飲に協力してもらえますか?是非、意見聞かせてください」
彼が言っている事は、きっと自分に気を使わせない為の嘘なのかもしれないと花菜は思ったが、彼の優しさに素直に甘える事にした。
「分かりました。でも、花菜はコーヒーにはうるさいですよ」
花菜の言葉に彼は少しビックリした顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「どうぞ忌憚のないご意見をお願いします」
そういって笑顔でお辞儀する彼に、花菜は笑ってしまった。
(笑顔が修哉に似ている。やっぱり…)
花菜がそう思った時だった。
「健太君、ちょっといいかな」
彼が、喫茶店のマスターに呼ばれた。
「すみません。では、ごゆっくり」
彼はマスターの所に行ってしまった。花菜は、そんな彼の後ろ姿を呆然としながら見つめた。
(健太…。彼は、修哉じゃないの…。あんなに似ているのに)
花菜は、彼の持ってきてくれたコーヒーに口をつけた。いつもブラックで飲む花菜だったが、そのコーヒーはいつも以上にとても苦く感じた。
(この苦さの原因は、きっと花菜自身のほうね)
花菜は、近くにあったミルクと砂糖をコーヒーにいれて飲むことにした。コーヒーの苦味は和らいだが、花菜の心はまだ辛かった。
花菜は、コーヒーが飲み終わると外を見た。雨の強さは弱くなったがまだ雨は降り続けていた。
「雨、なかなか止まないですね」
彼が、花菜の席へとやってきた。ふと、まわりを見回すと、ほとんどのお客さんが帰った後のようだった。そして、花菜はもう一度外を見た。
「そうですね」
花菜は、外を見ながら答えた。
「でも、安心してください。もう晴れると思いますよ」
「そうなんですか?」
花菜は、外に目を向けたまま彼の声に答えた。
「俺、晴れ男なんです」
花菜は、彼の言葉に驚いて振り向いた。
「晴れ男なんですか…?」
「たまたまかも知れないですが、俺、意外と天気に恵まれていて。だから、安心してください。憂鬱な黒い雲なんて吹き飛ばして見せますから」
そう言って胸を張るしぐさをする彼を見て、花菜は胸が苦しくなった。
「雨はやっぱり嫌いですか?」
これは、花菜があの日、修哉に質問した言葉だった。花菜の質問は意外だったのだろう。彼は驚きながら花菜を見た。そして、彼から返ってきた言葉に花菜は涙を堪える事になった。
「う~ん、正直あまり好きでは無いかも知れません。やっぱり晴れている方が気持ちいいと思いますし…」
修哉と同じ顔から返された言葉に、花菜は下を向くしかなかった。
(分かってる。ここにいるのは健太さんと言う人で修哉じゃない。でも、…)
彼の名前が違うという事は、彼が修哉ではないと言う事だ。それは、頭では理解していた。でも、どこかで、もしかして事情があって今は別人のふりをしているのかもしれないと花菜は、淡い期待も抱いていた。
でも、先ほど彼から発せられた言葉に、花菜は偽りを感じられなかった。
(修哉は雨を好きって言ってくれていた。でも、この彼は本当に心から雨より晴れを好きだと言っている。やっぱり別人なんだ…)
花菜は彼の顔を見ることが出来なかった。突然下を向いた花菜に彼は慌てていたが、花菜に彼を気遣う余裕などなかった。
しばらくして、彼が言ったように雨がやみ、明るい光が少しだけ差し込んできた。それを見た花菜は、ゆっくりと席を立った。
「今日は、ありがとうございました。タオルは洗濯して後日持ってきます」
「気にしないでください。みなさんそのまま席に置いていかれますから」
「そうはいきません」
帰り際にタオルを洗濯して返したいという花菜とそのままでいいと言う彼で少しだけ揉めた。
「美味しいコーヒーもサービスして頂いたのに濡れたタオルをそのままなんて、申し訳なさすぎます」
渋る花菜に彼は苦笑の表情を浮かべた。
「分かりました」
やっと、来週の土曜日に花菜がタオルを持ってもう一度お店に来ると言う事で話が着いた。では、お待ちしていますと言う彼に、花菜も笑顔を返し外に出た。
(タオルの事もあるけど、花菜はまたここに来たい。やっぱりもう一度彼に会いたい)
喫茶店を出ると、彼の言う通り黒い雲の隙間からスカイブルーの青空が顔を見せ始めていた。
(この青空は、今の私には少しだけ辛いな…)
花菜は空を見上げながら、家にあるスカイブルーの折り畳み傘を思い出していた。
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