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8.救われる心(佐藤健太)
「健太くん、マスター。ごちそうさま」
「ありがとうございました」
健太は、お客様を見送るとこっそりと息をはいた。
先ほどまで目まぐるしいほどに店内は賑わっており、健太は、あちらこちらと動きまわり、慌ただしく働いていた。
ここの喫茶店は、マスターの入れるコーヒーがとても美味しいのでコーヒー目当てのお客様がたくさん来店するが、ランチタイムは客層が変わる。
その理由は、いつもホールにいるマスターの奥さんが作るランチもとても人気だからだ。その為、お昼時はたくさんの人がそれを目当てに訪れる。その結果、ランチ時は、猫の手も借りたいほどに忙しいのだ。
それが今やっと落ち着いてきた。最後にランチを頼んだお客様も先ほど帰り、今お店には常連客のお客さんが本を読みながらコーヒーをゆっくりと飲んでいるだけだ。
「健太君、少しお客さんも落ち着いてきたから少し休憩しよう」
そう言うと、マスターは健太にコーヒーを入れてくれた。健太は、昔の自分の好みは分からないが、今の健太はこのマスターの入れてくれるコーヒーの匂いが大好きだ。
健太はコーヒーの匂いを思い切り吸い込いこんだ。
(やっぱりホッとする)
そして、ゆっくりとカップに口をつけた。やっぱりマスターのコーヒーは本当に美味しい。
「本当に健太君はコーヒーが好きなんだね。幸せそうに飲んでくれるから嬉しいよ」
「それは、マスターのコーヒーが本当に美味しいからですよ」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
健太の言葉にマスターは嬉しそうに笑った。
「本当にいつもマスターには助けられてばかりで。このコーヒーにもいっぱい助けられました」
「そんなたいした事してないよ」
「そんな事ありません。記憶がない男に住む場所だけじゃなく、自分のお店で働かせてくれるなんて普通はありえませんから」
「まだ、何も思い出せないのかい?」
「はい…」
健太はコーヒーカップに視線を落とした。
体調も落ち着き、ここで働き始めた頃、最初は、とにかく必死だった。置いてもらっている身としては、出来る事はしなくてはいけないと。
しかし、月日が経つたびに、健太は徐々に情緒不安定になった。いつか戻ると思われた記憶もまったく戻らず、突然記憶が無くなって自分が何者か分からなくなってしまった事は、予想以上に健太を苦しめた。
しだいに、喫茶店で働かせてもらっている身でありながら、健太は、勤務中も心ここにあらずで本当に役に立たなくなった。
その為、失敗も多く、何個もカップや食器を落として割ったり、注文の伝達ミスなども多え、もし自分がマスターだったら首にして放り出していてもおかしくないレベルだっと健太は、今、当時を振り返って思う。
それでも今日までやってこれたのは、やはりマスターや奥さんを含めこの喫茶店の常連さん達にたくさん支えてもらったからだと改めて健太は思った。
何も持たず身一つだった健太に身の回りの品を揃えてくれたのもマスター達だった。しばらくして、健太が一人暮らしを始めた時も、常連のおじさん達が家で使わなくなった棚などいろいろな物を譲ってくれた。健太は、マスターに見つけてもらい、そして助けられて本当に幸せだったと心から思った。
(それに今飲んでいるコーヒーにもたくさん助けられたな)
健太は、喫茶店にくる様々なお客様を見るたびに胸が痛くなることが多かった。
(もしかして、記憶が無くなる前には俺にも家族や恋人がいたのだろうか。そして今も泣きながら俺を待っていてくれるのだろうか)
そんな思いを抱き、焦るたびに全く思い出せない自分を責め、苦しんでいた。そんな時、マスターは健太に何も言わずにコーヒーを入れてくれた。初めて飲んだマスターのコーヒーは健太には苦くて、たくさんミルクと砂糖を入れて飲んだ。それでもマスターのコーヒーからはとてもいい香りがして、優しい味がした。そして、マスターのコーヒーは健太の心をゆっくりと解きほぐしてくれた。
だから、健太はマスターの入れてくれるコーヒーの純粋な味を味わいたくなって、ブラックで飲めるように練習を重ねた。そして、念願叶って、今はもちろんブラックで飲めるようになった。
こう考えると本当にマスター達にはお世話になりっぱなしだった。この恩を俺はどうやったらちゃんと返す事が出来るのだろうかと健太はいつも考えているがなかなか答えが見つからないでいた。
そんな風に感慨深く思っていると、マスターから声をかけられた。
「健太君、焦らなくていいからね。いつまでもここで働いてくれていいんだから。君が記憶が戻っても戻らなくても君がいつかここから旅立ちたいと思うまでずっとね」
そう言ってマスターは健太に笑顔を向けるとカップを洗い始めた。マスターはこうやっていつも健太に欲しい言葉をかけてくれる。恩を返すどころか健太はマスターから与えてもらってばかりだった。
(マスターにはかなわないな…)
「俺も洗い物手伝います」
「ありがとう。だったら、中の奥さんの方を手伝ってあげてくれるかな?あっちの方が大変だから」
「はい」
健太は、急いでコーヒーを飲みほすと奥さんの方を手伝いに行った。
健太の今の心を表すように喫茶店の外には綺麗な青空が広がっていた。
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