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1.決意する(篠原花菜)
カーテンを開けると珍しく広がる青空に、花菜は、にっこりと微笑んだ。
「よし!今日もがんばりますか」
休日の朝、本当ならばゆっくりと寝ていたいが、そうもいかない。花菜は、朝食を軽く済ませ、基本的な家事を済ませると、ある部屋のドアの前に立った。
「大丈夫。もうこの部屋に入っても胸が痛んだりしない」
花菜は、自分に言い聞かせるように呟いた。
花菜は、ただ今せっせと荷造り中だ。
このアパートは、会社にも近く、なおかつまわりの環境も良くてとても住みやすくて気に入っていた。それでも、この住み慣れたこの家を出るには、訳がある。
それは、花菜の思い人、いや思い人だった人。そう、彼は花菜にとって過去の人だ。
彼が居なくなってもう三年。いつまでも彼との思い出が溢れるこの部屋にいるわけにはいかず、花菜はこの部屋を出て行く事を決めたのだった。
しかし、心は決めてもなかなか進まないのが引っ越し準備だ。これを期に断捨離とも思ったのだが、実際問題、なかなか難しい。
それに花菜が頭を悩ませているのは、彼が残していった荷物についてだ。
この荷物の持ち主「彼」は、さよならも言わずに私の前から消えてしまった。
それは、いつもと変わらない朝だった。
花菜は、朝の身支度を整えながら、玄関にいる彼に声をかけた。
「今日は、どこに行くの?」
「まだ、決めてなくてさ」
「また、行き当たりばったり?」
「花菜は、いつもバカにするけど、意外とそれがいい出会いになったりするんだからな」
「そうなの?でも、今日は、早く帰ってきてよ」
「何かあったっけ?」
明らかに忘れている彼の様子に花菜は呆れた声をだした。
「今日、あなたの誕生日でしょ」
「あっ、そうだった!すっかり、忘れてた」
「ごちそう作るからね。だから絶対早く帰ってきてね。」
「分かった!から揚げは必須でお願いします」
「かしこまりました」
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
あの時、ちゃんとドアの前まで行って見送っていたら何か変わったのだろうか。せめて出かける前の彼の顔をちゃんと見ていたら。花菜は、何度も後悔した。
あれが彼と最後の会話になるなど、あの時の花菜には想像する事など出来なかった。
その日、彼は帰って来なかった。
最初は、ふらふらと遠くまで行って帰宅が遅れているのだろうと思っていた。だから、帰ってきたら、しっかりと怒らなきゃとさえ花菜は考えていた。
しかし、気がつけば時計は日付をまたぎ、待ちくたびれてテーブルで寝てしまった花菜が目を冷ましても、彼は帰ってきていなかった。
花菜は、必死にいろんな場所を探した。よく一緒に行った公園や大好きだった喫茶店など。
でも、どこにも彼はいなかった。探しても探しても彼の姿を見つけられず、花菜の心にどんどん影を落としていった。何よりも彼のケータイがアパートに置いたままになっている事が花菜の心を苦しめた。
彼はケータイをよく忘れて出かける事はあった。でも、もし今回は意図的に置いて行ったとしたら。今回の失踪も花菜との別れを彼が選んだ結果だとしたら。
そう思うと、花菜は彼を探し続ける事が出来なくなってしまった。
あの日からもう何年もたち、花菜はやっとけじめをつける事を選んだのだった。
しかし、1つ問題があった。それは、天涯孤独だった彼の荷物の行き先だ。引きとってくれるような人の送り先も分からず、だからといって彼の荷物を持って引っ越すわけにもいかないし、そうといって捨てるわけにもいかない。そう思い、ずっと手付かずにいた。
でも、引っ越しの日が近づき、ひとまず彼が残していった荷物を花菜は片付ける事にした。
こうして、花菜はやっと彼との思い出ともう一度向き合う事になった。
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