カスタムドールクローゼット

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「あの、如月さんって、確かワインがお好きでしたよね」  と、急にどこか改まったような口調になったので、私はパンを食べていた手を止める。 「うん、好きだけど……どうして?」 「駅前に新しいお店ができたんですけど、そこ、結構おいしいワインが揃ってるらしくて」  水野さんは若いながらなかなかのグルメだ。今までにもときどき、おいしいお店の情報なんかを教えてくれることがあったのだが。 「その……、今度、ご一緒にいかがでしょうか」 「……えっ」  思い切ったように言われ、私が戸惑いの声を漏らした、その直後。少し離れた部長のデスクから水野さんを呼ぶ声がして、私たちは二人とも肩を跳ねさせた。  はいっ、と相変わらず元気のいい返事と共に、水野さんが飛んでいく。残された私は少しのあいだその姿を目で追ったが、すぐにデスクに向かって座り直した。  同僚はみんな営業かランチで出払っている。誰にも聞かれなかったはずだ。そのことに安堵しつつも、動揺を隠しきれず、ひとり俯く。  実は、水野さんからはこれまでにも数度、食事の誘いを受けている。だが「ご一緒にいかがでしょうか」なんて明確な言葉を使われたのは、今回が初めてだ。  今まではなんというか、勘違いだろうかと思わせる程度の、ぼやけた言い回しだったのだ。だから私もはっきり返事をすることができず、いつも会話が流れて終わっていた。  まさかあんなふうに誘われるなんて。正直、驚いたし、戸惑ってもいた。いつもの朗らかさとは少し違う響きが、耳の奥で反響する。  断るべきでないことはわかっている。相手は若くてルックスも良く、気さくで仕事もできる、部署内の人気者だ。私みたいな年増を誘ってくれるなんて、何かの間違いじゃないの、と言いたくもなる。  それでも、やはり、気が進まない。  私はひっそりと、だが深くため息をついた。  ドール以外に趣味もない私が、楽しく会話を続けられるとは思えず、かといって唯一の趣味を明かすつもりもない。 当たり障りない上っ面の会話をしながら食事するよりは、家で黙々とミシンをかけたりドールの加工をしていたい、と思ってしまう。  そういえば、そんな話をすずちゃんともしたことがあったな――と、唐突に思い出した。 「わかる。興味ない相手に愛想ふりまいてる暇なんかないよね」  確か半年ほど前だ。すずちゃんの少しハスキーな声は、耳にさらさらと心地よかった。 「いいじゃん。話の合わない若者とゴハンなんて行かないでさ、私と通話しながら植毛してなよ。ケイさんはいいんだよ、それで」  ひとはひとのことを声から忘れていくものらしい。でも私はまだ、すずちゃんのネット回線越しの声を、その手触りのようなものまではっきり思い出すことができていた。
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