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僕は会社を出て、地下鉄に乗っていた。もう六時半だというのに、地下鉄の中にはリュックを背負った子どもが三人、乗っていた。三人とも同じリュックで、それはどこかの学習塾のものだった。
「俺さあ、大統領になるんだ!」
「ばーか、日本に大統領はいねえよ」
「日本じゃないもんね! 英語ペラッペラになって、アメリカに行って、大統領になる!」
二人がそんなやりとりを大声でして、もう一人はげらげらと笑っていた。
……くだらない。もし今、僕が包丁を持っていたら、このうるさいガキどもを刺しころしていたかもしれない。
……くだらないのは、どちらだろう。僕のほうかもしれない。つまらない日常、つまらない仕事、つまらない休日。つまらない、人生。
僕はしばらく地下鉄に揺られながら、ガキどもの夢物語を盗みぎきしていた。どれもとうてい叶いそうにはないけれど、夢を持てるのは幸せなことなのかもしれない。
なんだか、舌がざらついた。
終着駅で、僕は地下鉄から降りた。雑踏に紛れながら改札を抜けて、階段を登って地上へと出る。夏だから、まだ空は少し明るい。
——もっと上を、目指せよ。
今日、上司に言われた言葉が、僕の耳朶によみがえる。
上? 上に、いったいなにがあるっていうんだ。
僕は空を見上げた。今、僕の上にあるのは、空だけだ。
視線を戻して、家への道を歩く。僕だって若い頃は、夢を見ていた。そして、努力さえすればその夢が叶うと、本気で信じていた。けれど、世の中はそんなに甘くなかった。いや……。僕の努力が、足りなかったのだろうか。
けれど、あのガキがたとえどんなに努力したとしても、おそらくアメリカの大統領には、なれない。努力は必ずしも報われるわけではない。
僕は自分の住んでいる部屋のあるマンションのエレベーターに乗って、そして、屋上のボタンを押した。もちろん、僕の部屋が屋上にあるわけでは、ない。
屋上に出ると、涼しい風が僕の頬を撫でた。屋上には転落防止のためのフェンスが張りめぐらされているが、このマンションはなにせ古いものだから、一箇所フェンスが完全に壊れていた。僕はそこへ近寄る。
——もっと上を、目指せよ。
僕は上を見上げる。当然、そこには空がある。ところどころを白い雲に蝕まれた、たいして美しくもない空が。
「邪魔はするな」
僕は誰へともなくそう呟いた。
そして、フェンスの壊れているその縁から、一気に身を投げだした。失うものなどなにもない、今の僕なら、どこまでだって飛べる。
……この空を、なくすまで。
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