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「もう荷物も何も要らねぇから捨てとけよ。会社で会っても話しかけて来んじゃねぇぞ。じゃあな」
そう吐き捨てると、手に持ったグラスを強く叩きつけるように置くと鞄を持って店を出ていく弘也。
別れ方としては最悪過ぎるけど、どうやら別れられたみたいだ。
お冷をかけられて髪からブラウスまで濡れた私は、少しの間何が起きたのか理解するまで固まってしまっていた。
「お客様…大丈夫ですか?良かったらこれ…」
先程案内してくれた店員さんが、タオルを手渡してくれた。
yamano
タオルには、ピンクの刺繍糸でそう綴られていた。
ふと店員さんのネームプレートに目をやると、『ヤマノ』と書かれていた。
「え…これお姉さんのタオルじゃ…」
「すみません、お店にダスターくらいしかなくて…私の私物なんですけど洗ってから使ってないやつなので良かったら使ってください…!」
大学生くらいの彼女は、そう言って私にタオルを握らせると失礼しますと言って厨房の方へ行ってしまった。
店員さんに話しかけられて我に返ると、数は少ないものの周りのお客さんからの視線に気付きとんでもない迷惑行為を引き起こしてしまった、とハッとした。
穴があったら入りたい…
今まで目立たず生きてきたって言うのに…
いい歳して本当に…情けない。
髪や顔から滴る水を、手渡されたタオルで拭くと鞄を持って席を立つ。
「お姉さん、このタオルありがとうございます。ちゃんと洗って返しに来ます。何も注文もせずに騒ぎだけ起こしてしまって本当にごめんなさい…」
キャッシャーの陰から様子を伺っていたヤマノさんにそう声をかけ、頭を下げた。
「必ず返しに来ます」
そう言うと、私は気まずさを抱えたまま店を後にした。
もう28歳だって言うのに、彼氏に浮気はされるわ逆ギレされて水をかけられるわ…挙句の果てに何の関係もないお店で騒ぎを起こして迷惑をかけるなんて。
家に帰ろうと駅へ足を向けるが、歩いている内に弘也に言われた言葉がガンガンと響いて歩く足が動かなくなってしまった。
『お前じゃなくても女なんていくらでもいんだよ、ちょっと顔と体が良いから付き合ってやってたのに何つけあがってんだっつーの』
浮気されてただけに留まらず、そんな暴言まで吐かれるだなんて想像してなかった…。
3年も付き合った彼氏だと言うのに、悲しい気持ちも何も感じず涙も出なかった。
弘也とは入社式の時に声をかけられ、そこから何度か食事に行き、告白されて付き合った。
1度目の浮気が発覚するまでは、お互いに好き合っていて良い関係が築けていると思っていた。
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