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屋上の端に立つ浪川さんの姿を校庭から見上げながら、彼女はあそこから飛ぼうとしているのではないか、とぼくは考えた。
夏の空は近い。呆れるほどの青の中を悠然と泳ぐ雲が、浪川さんと重なっている。まるで、彼女が白い翼を広げているかのようだ。ほんとうに、いまにも飛び立ちそうな様子である。
いけないな、とぼくは思う。簡単な話だ。ぼくくらい危険に対して周到に準備をしているならともかく、丸腰であそこから飛び降りでもしたら、ただではすまないだろう。全身を骨折したり、下手をしたら死んでしまうかもしれない。
誰か彼女を止めてくれないものかと辺りを見渡すが、人の姿はない。夏休みの校庭は、降り注ぐ陽射しとセミの声に支配されているばかりだ。どうやら自分が止めるしかないらしい。
日傘をたたみ校舎へと入ったぼくは、屋上へと歩を進める。しんとした無人の階段は、光と影とが寂しげに交錯している。やがてたどり着いた屋上への扉は施錠されておらず、簡単に開いた。
空が一段と近くなった。蓄積されたコンクリートの熱が、靴底越しに伝わってくる。ぼくは日傘を広げながら、浪川さんの背中に向けて「おやめなさい」と言った。ぼくの声に気づいた浪川さんが、長い髪を耳にかけながら振り返る。
「……なに?」
「やめたほうがいいと言っています。人は空を飛ぶようにできてはない」
「は?」
浪川さんが怪訝そうな顔でぼくを見る。そして、少しの間をはさんで「ああ」と言った。
「わたし、あなたのことを知ってる」
「そうですか」
「安全第一のヘルメット、黒い傘、大きなリュックサック、瓶底めがねに、マスク着用。そして、夏なのに長袖」
浪川さんはぼくの全身を指差し確認しながら言った。
「変人の鳥谷くんね」
「いかにも」
ぼくはうなずく。変人、という生ぬるい呼び方を、ぼくはわりかし気に入っているのだ。
「そこから飛んだらいけないよ。落ちたら最後、すごく痛いか死ぬかのどっちかだ」
「飛ぶわけがないでしょう」
無表情のまま浪川さんは言った。
「これは……そう、ただの下見なの」
「下見……」
その返答について、ぼくには思い当たる節があった。『青春の咆哮』である。夏休みに一度の登校日に執り行われる、わが高校の生徒会が企画する夏の一大イベントだ。
概要はこうだ。あらかじめ参加を志願した生徒が、順番に屋上の端に立つ。そして、校庭に集合した全校生徒に向けて、愛の告白をしたり、日頃の葛藤を叫んだりするのである。
元ネタは昔のテレビ番組らしい。はなはだ滑稽な催しであるなと理解に苦しみながらも、今のぼくはそのイベントに加担する立場にいた。生徒会の副会長であり、隣の席の安田くんに手伝いを頼まれたのだ。おかげでこうやって、夏休みの学校に出向いている。
「本番の前に、ここから見える景色を見ておきたかったの」
「ぼくの早とちりでしょうか」
「そういうこと。だから、わたしにかまわないでくれる? もう帰るし」
そう言って浪川さんは屋上の端で踵を返した。ぼくの背丈をゆうに越す、しなやかな長身だ。すれ違いざまに尾を引いた長い髪が、残像のようにぼくの視界をかすめていく。
「さようなら、変人さん」
ひらひらと手を振りながら浪川さんは屋上から立ち去った。
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