そこにいる。

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「多胎妊娠のリスクについては、最初に説明しているはずなんだがね。ヒステリックに喚く客ほど、都合の良い情報は忘却してくれるらしい。三つ子以上の兄弟となると、大抵の夫婦は“そんな話は聞いていない”と怒るんだ。あるいは、想定なんかしてなかったとばかりに愕然とする。今までどんなに頑張っても妊娠できなかったんだから、一気に何人も着床するなんて思ってもいないってことなんだろうな」 「お医者様も、大変なのね」 「まったくだ。お腹に宿った時点で、それはもう新しい命。まだ意思が宿ってない胎児であるとしても、殺すのはしのびないと思うんだよ」  まあ、あんまり自分も綺麗事ばかり言えないのだが。――お金のために、違法スレスレの仕事も引き受けてきたという自覚はある。最近は、まともな出産の手伝いよりも減数手術やら中絶やらに関わることが多くて本当にげんなりしているのだ。  もう何十年もそういうことを繰り返してきて、麻痺してきている面もあるけれど。できれば、自分だって誰かに笑って感謝される仕事だけやっていたいのである。世の中、そんなに甘いものではないのだけれど。 「で、そういう患者は手術が終わったあとに何度も私の元を訪れることが少なくない」  すっかり冷めてしまった珈琲の水面には、やつれた私の顔が映っている。眼の下の隅が凄いな、となんだか笑ってしまった。そういえば、体重もここ一カ月で三キロ落ちた気がする。そろそろちゃんと健康診断に行くべきだろうか。忙しさにかまけて、ここ数年すっかり忘れてしまっている。いい加減、医者の不養生だと叱られそうな顔色である。 「何でも、手術後から頭痛が酷いからなんとかしてくれ、と。しかもそれが、夫婦そろってだと言うんだ」 「頭痛って、そういった手術と関係ないような気がするけど?それに、旦那さんはもっと関係ないでしょう?」 「私もそう思う。それでもまあ、リスクを説明したのにすっぽ抜けて喚くような患者や、わかっていたはずなのに受精卵をいくつも戻させようとする患者は何でもかんでも私のせいにしたいんだろうね。それこそ、亡くなった“兄弟”の呪いだろうとなんだろうと」 「あー……」  聖奈は斜め上方向を見て言った。 「あれかしら、水子供養とか、そういう」 「そうそう、もはや医療の範疇じゃない。お寺にでも神社にでも行ってくれ、と言いたいのが本音だよ」
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