断ち切るのとのできなかった未練

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1  見てはいけないものをものを見てしまった。  明子のメール ――入浴料だけでいいから遊びに来て  それが何を示唆するのかは俺でも分かった。  ソープランドは受付で入浴料の六千円を支払い、店内、それは女の子のいる個室で一万円を支払う。  俺はそのメールを見るなり明子を蹴り飛ばした。 「誰だ、この男は!」  明子は黙っている。 「誰かと聞いてるんだ俺は!」足のかかとで転がった明子の顔を踏み潰す。 「ひかる君」明子は小さな声で答えた。 「何をしている人間だ」 「トラックの運転手をしてるって聞いた」明子の顔はすでにはれ上がっていた。  俺は明子の顔を執拗に蹴りつけた。拳も使った。 「今すぐこの男に電話を掛けろ」  明子は戸惑っている。 「何回言わせるんだ!今すぐ連絡を取れ!」そう言って明子に電話を投げつけた。 2 明子とはパチンコ屋で知り合った。俺がまだゴト行為をしていた頃の話だ。  DAUMATUというパチ屋のカウンターで明子は働いていたのだ。  俺は毎日、店の開店時間の十時までにはいつもたどり着いていた。店側から見ればいい常連だった。ゴト師でなければ。  一日の売上は五万~十万。変動があった。  その日も閉店時間である夜10時まで打ち続けていた。連チャンが止まらなかったのだ。  俺のゴト行為は、かかりまちというやつで、台の中にピアノ線を仕込み、持ち玉が減ったらピアノ線を押すことにより不正に出玉を得る行為だった。  大当たりしなくても玉を出すには出すことができたが、それでは目立ちすぎる。  DAIMATUはとにかく店側のガードが甘かった。  毎日不正に五万円以上の金額を換金していては不思議に思われることもあって、一日に何回かに分けて換金していたこともある。 「毎日、すごいですね」景品に交換してもらう際、明子が話しかけてきた。 「今日は、元手使っているからそうでもないんだ」まずい、目をつけられたか? 俺の中には不安と焦りが生じた。 「ああ、そうだったんですね」明子が微笑む。  俺はそっと胸をなでおろした。もう少しうまくやらなければいけない。戒めの言葉を自分に言い聞かせる。  明子が機械から繰り出される景品を輪ゴムで包んでくれる。五千円分の金が埋め込まれたカードチップ11枚と。千円のチップ1枚。計五万六千円。  そのチップと共にメモ紙のようなものを手渡された。俺は黙って受け取った。  店の外に出るとシルバーのステージアが目に入る。吉田先輩だ。申し訳なく思う。  毎日、俺の送迎をしてくれている。俺は急いで換金をすまし、車のドアを開け助手席に滑り込む。 「すいません、待たせちゃったみたいで」 「気にするなよ、今日はどうだった」  俺は素直に五万六千円の利益と明子から手渡されたメモ紙の事を先輩に話をした。  メモ紙に書かれていた内容。明子のフルネームと携帯電話番号、メールアドレス、そして連絡待っていますと一言が書かれたものであった。 「やったじゃねえか、まつ」俺は当時、偽名である松永となのっていた。 「俺、タイプじゃないんですよあの子」 「背があまり大きくなくて、いつもニコニコしてる子だろう」先輩もたまにパチンコを打ちに来るから明子のことを知っていた。 「連絡はするつもりです」俺は言った。 「あまり固くるしく考えないほうがいいぞ。ところで今日はどうする」 「いつものとこで」 「アイネだな、了解」アイネとはいわき市湯本にあるラブホテルだ 「あっちのほうはどうする? 今日は辞めておくか」先輩が笑う。 「何言ってんですか、シャブがなければ明日の仕事ができませんよ」  吉田先輩はシャブの売人であった。0,3グラム、一万円で売っていたが、俺には0,5グラム、一万円で売ってくれていた。  車がホテルに到着した。 「俺も今日はアイネに泊まるわ」先輩はそう言って部屋の前で俺を降ろすと、また後でと言ってその場を去っていった。  吉田先輩と俺が呼ぶようになったのはいつ頃であろうか?  元々は俺のゴト師の師匠が、福島刑務所で吉田先輩と知り合い、社会に復帰した際、紹介を受けた。俺は三十二で先輩は四十であった。  紹介は受けたものの、年上なこともあり吉田さんの事を吉田先輩、もしくは先輩と呼ぶようになった。  栃木県の宇都宮での仕事、それはゴト行為であったが、毎日市内もしくは県内、少し遠出しても茨城県まで足を運んでいたが、師匠がパクられてしまったこともあり、俺は地元のやくざとゴト行為を繰り返していたが、そのころつるんでいたやくざと馬が合わなかったこともあり吉田先輩に連絡を取ったところ、いわきに来てみたらどうかと誘われたのであった。  吉田先輩はポン中であった。俺もたまには覚醒剤をあぶって楽しんではいた。  いわきに行って、吉田先輩とつるむようになって俺は完全なポン中になってしまった。  宿はモーテルかラブホテルに限られていた。ビジネスホテルには決して泊まらなかった。  夜中の三時頃になるまでテーブルゲームやホテルに設置してあるスロットで時間をつぶしていた。AVを見て一発ぬくことも日課となった  覚醒剤を摂取するとむしょうに女が欲しくなるものもあったが、俺はホテルに設置してある大画面のテレビでアダルトビデオを見ながら性欲を処理していた。  三時頃寝て九時には目を覚まし、目覚めの一発、ではなくて覚醒剤をあぶりパチ屋に出かける毎日。  俺は明子から手渡されたメモ紙をしばらくの間見ていた。そして夜中の三時過ぎにメールを打った。 ――俺にかかわるとろくなことにならない  ただその一言だけを打ち込みメールを打った。もちろん時間が時間だ。返事はなかった。  翌日、俺が起きたときに部屋のチャイムが鳴った。吉田先輩である。  先輩は部屋に上がり込むなりちょっといいかと言って、パケ袋に入った薬と注射器を取り出す。  俺の目の前で、左手の上腕に水で溶かした覚醒剤を打ち込む。俺もそれに倣いアルミホイルを取り出し、覚醒剤を炙る。  徐々にその効き目が現れる。  少し時間をもらった。シャワーを浴びたかった。  覚醒剤を決めて浴びるシャワーは格別だった。  注射をしてもよかったが、どこかためらわれた。  いわき市湯本にあるホテルを出たのが九時四十分であった。  DAIMATUに着いたのがジャスト十時。  店に入って驚いたのはすでに明子が働いていたことである。  俺が台に座るなり明子が近づいてきた。 「あんな時間まで起きているんですか」おはようの挨拶もなかった。 「ごめん、返事が遅くなってしまって」 「今日は私に付き合ってください」そこには有無を言わせぬ口調があった。 「シフトチェンジしたんだ?」 「4時に終わるので、半にセブンイレブンで待っててください」  DAIMATUの近くにあるセブンイレブンは一件しかない。  俺は明子と約束してしまった。 3  4時半まで待つことはなかった。  4時20分頃であろうか、さびれた白いシビックがセブンの駐車場にとまった。運転席には明子の姿が見えた。  車から降りた明子が近づいてきた。  俺を店内へと誘う。それにしても積極的な女だ。  サンドイッチが並べられた棚へと向かう。 「カツサンドでいいでしょう、それと玉子サンド。コーヒーは微糖でよかったよね」 「ああ」そう答えるしかなかった。明子は俺の好みを全て知ってるようで怖かった。  コーヒーの好みが知られているのは仕方がない。  レジで会計をすませる際、俺が支払おうとすると、明子は私が誘ったんだからわたしに払わせてと強い口調で言った。 「どこかに行くの?」俺はそれとなく聞いてみた。 「いいから今日は私に付き合って」  俺は明子の言われるままだ。  明子が運転席に座る。俺は助手席に座ったが、どこか居心地が悪かった。 「運転変わろうか」 「わたし車の運転好きなんだ」  明子はそう言って笑った。  運転が好きだというだけあって明子のドライビングテクニックは華麗だった。  どこに連れていかれるのであろうか?  30分ぐらい車を走らせた。車内はエアコンが効いていて八月の暑さを感じさせなかった。 「タバコ吸ってもいいか」  明子はうなづいた。  ウインドウを少し降ろす。どこからともなく流れ込んでくる潮風の香りが気持ちよかった。  たどり着いたのは海辺だった。車を停めて堤防へと歩を進める。明子の右手には先ほど買ったコンビニの袋が握られている。  堤防に二人で腰を下ろした。 「はい、これ」そう言って明子は先ほど買ったサンドイッチとコーヒーを俺に差し出してきた。  俺はありがとうと言って受け取った。  沈んでいく夕日が美しかった。潮風も気持ちいい。海の音も聞こえる。  サンドイッチの味は覚えていない。 「よく、ここにくるんだ」明子は言った「まだ名前も教えてもらってないよね」 「まつなが、松永弘通」俺は名前は本名を言ったが姓は噓をついた。 「ひろってよんでいい?」 「皆、俺の事はまつと呼んでいるよ」 「そんなの嫌、ひろって呼ぶ」 「メールで言った通り、俺とかかわるとろくなことにならないよ」 「彼女いるの?」 「彼女なんていたら朝から晩までパチンコ打ってないだろう」 「わたしのことどう思う。付き合ってくれる」俺は返答に困った。  俺はポン中である。明子と付き合うとなると、そこから説明しなければならない。  俺は腹をくくった 「俺とかかわるとろくなことにならないと言った訳を教えようか」俺は何を言おうとしてるんだ。辞めろ!言ってはならない。もう一人の自分がそうささやきかける。 「聞かせて」明子が俺の顔を覗き込むように見つめ返してくる。 「俺は覚醒剤を使用している」断言してしまった。後悔はなかった。事実を知って、俺の事を諦めてもらいたかった。 「なんか怪しいと思ってたんだ」 「あやしい? 俺が?」俺はいぶかった 「インカムにひろが暑いからもっと冷房を強くしろとか、トイレにしてもそう」  明子の言ってることがすぐにピンときた。覚醒剤が決まっていた俺は店員に冷房の温度を下げろといつも言っていた。また、薬が切れるとトイレに行ってあぶっていた。  インカムで店員は情報をやり取りしてるのだ。俺の事が話題にされていたとは。  ゴト行為を繰り返していたが、そのことはばれてはいないようであった。  覚醒剤を使用していることよりゴト行為を告白すればよかったか? それはならない。DAIMATUを失ってしまったら俺の仕事場はもう皆無に等しい。  覚醒剤を使用していると言ったのは、明子に俺をあきらめさせるためでもあった。 「俺は店では厄介者だったんだ?」 「そうでは……ないけど」明子の語尾のニュアンスが気になった。 「もうこれで俺がどんな人間かわかっただろう」 「わたしにも教えて」俺は一瞬ひるんだ。 「何をだよ」 「覚醒剤。今、持ってるの?」世の中には不思議な女がいるもんだ。 4 俺は水パイプを持ち歩いていた。覚醒剤をあぶるためのものだ。  明子と一緒にアイネの一室を借り水パイプを使用してあぶった。  先輩に連絡を取り、着替えを届けてもらった。  俺の衣類の洗濯は吉田先輩の奥さんにまかせっきりだった。  明子とホテルに泊まることになった経緯は手短に話してあった。  シャブをあぶり明子が息を止める。そして俺の番。交互にあぶり続けた。  次第に明子のテンションが上がっていった。 「なんか気持ちがいい」明子が言葉にする。 「本当にいいのか」それは明子と一夜を共にすることだった。 「抱いて」 「その前にシャワーを浴びさせてくれ」  覚醒剤を使用していると体臭が臭くなる。明子とは距離をおこうと思っていたのに、覚醒剤を使用している事実を話せば離れていくもんだとばかり思っていたものが、今は一緒に覚醒剤を決めている。  明子と一緒に浴室へと向かう。  明子の身体はやせていて乳房もこぶりだった。  互いに身体をまさぐった。頭の先から足の指先まで快感が行き届く。  普段は自慰行為に耽る俺であったがその日は一晩中SEXをした。  絶頂を迎えたのは朝の六時過ぎだった。 「今日も早番なのに大丈夫かな」明子が不安を言葉にした。 「またあぶればいいよ」そう言って俺は覚醒剤を落とし込んだ水パイプを差し出す。 「ありがとう」なんかその場にそぐわない言葉に思えた。  昨晩は明子とドライブするからと言って、吉田先輩の迎えの車は断った。宿泊したホテルの部屋番号を教えて部屋まで薬を届けてもらった。  二人で遊ぶんじゃグラムおいてくよと言って、一グラムの覚醒剤を置いて行ってくれた。  先輩はお金を受け取らなかった。  その日から、毎日俺は、明子と夜を共にするようになった。 5 とうとう終わりの日が来てしまった。DAIMATUに設置してあるモンスターハウスというパチンコ台が撤去されてしまったのだ。  覚醒剤使用者は金がないのが常であったが、俺には少しばかり貯蓄があった。そのお金で毎日スロットを打ち続けた。みるみるうちに所持金が少なくなる。  季節は九月に入ろうとしていた。その日も明子とラブホに泊まる予定であったが、今日は一人にしてくれないかと言って、先輩にアイネに送り届けてもらった。  考え事が多かった。終焉を迎えようとしているのだ。明子とのSEX。ゴト行為。  考えることが嫌になった。  ここに来て、考えることが嫌になり、覚醒剤の使用量も多くなった。何とかしなければいけない。焦れば焦るほど覚醒剤の摂取量が多くなっていく。  そんな俺をまじかに見ていながらも、明子の俺に対する感情は変わらないようであった。  なぜ俺なんだ。なぜ明子は俺という男を選んだんだ。わからなかった。  そんなないまぜな感情のまま俺はスロットを打ち続けた。  明子とのホテル暮らしも極力控えるようにした。  先輩の好意に甘えて吉田さんの住む公営住宅に寝泊まりさせてもらうことにした。  二階建てだった。二階に吉田先輩の夫婦が寝泊まりしている。一階で俺は寝ることになる。  一階にはテレビとリモコンがあり何本かのアダルトビデオも貸してくれた。  覚醒剤を使用するとどうしても性欲に走ってしまう。おそらく吉田さんはそのことを気にかけてくれていたのだと思う。それでも二階には吉田先輩が奥さんと共に寝泊まりしてるのだ。アダルトビデオビデオなんて見る気にはなれない。  先輩だけでなく奥さんも覚醒剤を決めていた。  俺は横になり考え込んでばかりいた。  これからこの先どうして暮らしていけばいいだろうか。手持ちのお金も十万円を切っている。そんなあれこれ考えてる矢先、明子からメールが届いた。 ――生活の事は心配しないで私が何とかするから  やはり考える。明子は俺のどこに惹かれたというのだ。生活の事は何とかする? 俺の生活と言ったって、ただスロットを打っているだけだ。明子はいったい何を考えているのであろうか?  翌日、俺は先輩にDAIMATUまで送り届けてもらった。  明子は早番ですでに店内にいた。 「話があるから今日、仕事終わったら会おう」話だけなら電話で済ませればよいではないか? 「セブンで待ってるよ」俺は一言だけ言葉を返した。  約束の時間の4時半過ぎに明子は現れた。 「もうパチンコは打ってないんだね」 「ああ、飽きた」俺はまた噓をついた。まさかゴトを働いていたモンスターハウスがなくなってしまったとは間違っても言えなかった。覚醒剤を使用していることは話せてもゴト行為をしてたことは話すことができなかった。普通なら逆ではないか?  俺は明子と決めセクをしたかっただけなのかもしれない。でも知り合ったばかりのころ、、明子に対しては女性としての魅力は何にも感じなかった。これもまたひとつの事実である 「最近負けてばかりだね」明子はよく観察している。 「パチスロのほうが好きなんだけど、俺には向いてないみたいだな」 「もしよかったらこのカード使って」明子はそう言って大手サラ金会社のカードを差し出してきた。 「いいのか本当に」俺には欲望のほうが勝っていた。 「まだ三十万円は借りれると思う」  ありがたかった。とりあえずその場しのぎにはなる。俺は遠慮なくそのカードを受け取り暗証番号教えてもらった。 6 サラ金から借りることのできる限度額に達してしまった。  明子との関係は崩れるものとばかり思っていたがそんなことはなかった。  覚醒剤を摂取してのSEXに明子は、はまっていただけなのかもしれない。。  俺は文無しとなってしまったが、明子は俺を見捨てることはなかった。  俺は一大決心をして明子に告げた。 「俺のために鎌倉御殿で働いてくれないか」鎌倉御殿というのはいわき市小名浜にあるソープランドだ。  明子はためらっていたものの俺の申し出を了承してくれた。そこから先は早かった。  吉田先輩の奥さんも鎌倉御殿で働いてたこともあり、明子を紹介した。  そこから先はとんとん拍子に事が進んだ。  店の寮を借り、明子との同棲生活が始まった。  明子は一日に十人以上の客を相手にしていた。店のバックが一人につき一万円だから毎日十万円近くのお金を持って帰ってきた。その金はすべて俺がもらった。  その時の俺が明子に抱いてる感情は何だったのであろうか?  本気で惚れていたならソープランドで働かせるような真似はしない。  ただ金が欲しかっただけ? どこか矛盾してるが明子を愛おしくもあった。  明子が仕事を終えて帰ってくると覚醒剤を摂取して決めセクをする。  明子が稼いできた金を持って俺はパチンコ屋へと足を運ぶ。車は明子のシビックがあった。  明子の仕事を終えるのが早くて24時、遅くても1時であった。それからシャワーを浴びてSEXに耽る。寝るのが3時。朝9時半には俺は起きる。明子は疲れて寝ている。  俺は身支度をしてシビックに乗り込みパチンコ屋へと向かう。  ひもみたいな生活であった。みたいではなく完全なひもであった。  部屋に洗濯機がなかったので洗濯や家事や炊事は俺が受け持つことになった。  明子は午後4時には店に出勤する。  明子に対する申し訳ないという気持ちはまるでなかった。ただその日のあがりをもらい、SEXに耽る毎日。  破綻が見えているのは火を見るよりも明らかである。  足、それは明子の乗っていたシビックがあることで俺の行動範囲も広がった。  薬が切れれば吉田先輩のもとへと車を走らせた。 「あきちゃん、だいぶ稼いでいるみたいじゃないか」 「一日、十人以上の相手をしているみたいですからね」 「うまく付き合えよ」 「俺、そんなに器用じゃないんですよ」 「あきちゃんを失わないようにしろってことだよ」 「はあ……」俺は浮かない返事をした。  寮は店のすぐ近くにあったが俺は毎日帰りだけは迎えに行った。  どこかに不安があったのであろうか?  明子は体を張って稼いでくれている。稼いだ金はほぼすべてを俺が受け取っていた。  貯金をしなくちゃ駄目だ。頭ではわかっていてもなかなかそれが難しかった。  サラ金に返しに行ってはまた借りに行く。そんな毎日だった。  明子が稼いできた金を俺はすべてスロットで溶かしてしまっていた。もちろん勝つ日もあったが、たいがいは負けていた。  明子の稼いでくるお金しかあてはなかった。  どこか最近明子がよそよそしくなってきた。  肌で感じることができた。  明子に疑いの目を生じるようになった。  一度、朝パチ屋に向かう途中車の鍵を忘れアパートに戻った日の事である。  寝ているはずの明子が誰かと電話で話をしていた。 「誰と話してたんだ」 「友達」  俺がアパートを出た時、明子は熟睡しているかのように思えた。 「男か女か」俺は陳腐なセリフを口にした。俺が部屋に入るなり電話を切ったので男であることは間違いあるまい。 「お店の女の子」噓だ。噓だと知りながら、ああそうかと俺はその場を切り上げた。  明子の挙動がおかしくなった。店に迎えに来なくてもいいと言い出したのだ。  俺は冷静になって考えてみた。覚醒剤で頭が犯されている俺が冷静になることなどできなかったが。  俺の生活は明子抜きでは成り立たない。明子が稼いでくる金だけが頼りだった。今、明子にそっぽをむかれてしまえば俺の生活は破綻する。  明子が仕事を終えて帰ってくるなり俺は言った。 「何か隠してることはないか」 「仕事で疲れてるの、明日にしてくれる? でも明日もパチスロ打ちに行くんだもんね」  頭にきた。癪に障った。 「シャワー浴びるね」口調は優しかったがどこか違和感があった。  明子がシャワーを浴びている間、疑念を払うことができず、明子の持つピンクのトートバッグから携帯を取り出し、その履歴を見てみた。男らしい男はいないようであったが、メールを見てみると許すことのできない一文が目に留まった。 7 いわき市平にある五色町に俺はシビックを走らせた。  吉田先輩には明子に男ができたらしいという事実は伝えてあった。昨夜の事である。  アパートの駐車場には型落ちした日産のシーマが止まっていた。この車が神崎光の乗ってる車か? 憎悪を抑え込んだ。  空いてるスペースにシビックを止め、二階へと足を向ける。  アパートの部屋を叩いた。すると背の高い色黒のイケメンな男が出てきた  明子に電話させたのは昨夜の事である。  明子は今日、店を休んだ。昨夜、俺がしばいたから店へは出勤できる状態ではなかった。  神崎とはその時話し、今日、会う約束をしていた。  神崎ヒカルなんて芸能人みたいな名前でふざけている。むしが好かなかった。  実際に会ってイケメンだったのでなおさら頭にきた。 「あんたが神崎さんか?」 「はい。私が神崎です。どうぞ中へお入りください」 「室内に入るなり目に飛び込んできたものがある。菱の代紋であった。  神崎は現役のヤクザもんだったのだ。  いわき市平は住吉会のしまで山口組は事務所及び連絡所を置くことはできない。それぐらいのヤクザ事情はわかっていた。  菱の代紋を掲げることで俺に圧力をかけているのがわかった。  俺は反発を覚えた。それに奥のソファーにはでっぷりとした大柄な男が座っている。  俺は靴を脱ぎ、室内へと足を踏み入れた。  ソファーに腰を降ろす。デブと向き合う形となった。  神崎はどこかに電話をかけている。  電話を終えるとしばらくして外鍵をかけられた。これもまた圧力か?  部屋の内部からは室外に出ることは許されない。  俺は興奮していた。 「明子は俺の女だ。もう二度と会うな」 「明子さん困っていましたよ。働いたお金全部持っていかれると」 「俺の女だ!あんたにどうこう言われる筋合いはない」  神崎はこれ見よがしに、それは見せつけるかのように額縁に飾られた代紋のバランスを直す。 「明子さんは別れたがっています。ここは男を見せて別れてやってくれませんか」 「あんたやくざもんだろう。トラックの運転手じゃなかったのか」  神崎は立って話をしている。ソファーの向かいに座っているぶたはただニヤニヤと笑っているだけだ。 「あんたと俺の二人の話に何で部外者がいるんだ」 「少し冷静になってくださいよ松永さん」 「てめえの女とられて冷静でいられるか」 「ところで松永さんは看板持っていらっしゃるんですか」 「男と女の問題に看板もくそもないだろうが」  神崎の腹が読めた。俺に圧力をかけるつもりなのだ。代紋をかけた額縁を直し、中からは開けることのできない室内に閉じ込め、外鍵をかけたうえで看板の話をしてくる。  俺は圧力には屈しない。明子とは別れない。明子を神崎に渡してなるものか! 「遅れてしまいすんまへん。わたし玉地組玉道会の神崎ヒカルといいます」  なんだか少しイントネーションの違う関西弁に腹が立つ。 「俺はもう帰る。鍵を開けろ」 「わかりました。えろうすんまへんでしたな。ご足労お掛けして」こいつは関西かぶれか?何度聞いても腹が立つ。  俺は直行直帰でアパートに帰った。  顔を腫らした明子が部屋の隅にぽつねんと座っていた。 「相手はやくざじゃねえか、トラックの運転手だなんて噓つきやがって」  明子は口を開こうとしない。 「俺は絶対別れないからな」そうは言葉にしたものの、本心は違ったような気がする。別れたいと言われたらすぐに別れてやるのが男じゃないか、俺は何に固執しているのであろうか? 今、明子を失うことを恐れているのだ。  去り際はかっこよくありたい。今、明子の存在を失ってしまったら俺はただの文無しになってしまう。かっこよく生きたかったが、かっこよく生きることができない。俺の中には怒りしかなかった。その怒りの感情を押し殺し明子に言ってやった。 「神崎と別れるか、それが嫌なら三百万用意しろ」  明子は無言だった。 「聞いてるのかおい? 相手がヤクザもんだろうとそんなことは関係ねえ」  神崎に言われた言葉が思い出される ――松永さんは看板持っているんですか  振り返ってみても未だに頭が来る。  明子は俺と会話する気がないようであった。 「店に頼めば三百万のバンスぐらいたいしたことないだろう」  一方的に喋っているだけの俺が馬鹿らしく、悲しくもあった。  心のうちではわかったよ、明子。と言ってやりたかった。それを神崎光の存在が邪魔していた。どうして俺はこんなにも強欲なのであろうか?かっこよくありたい自分と、かっこの悪い自分。両者の自分がぶつかり合っている。 8  吉田先輩には事の成り行きを説明してあった。  部屋にも来て明子を諭してくれた 「店に来た客と付き合うのはうまくないんじゃないか」  先輩の言葉を聞いても明子は無言を貫き通している。 「神崎に何と言われたんだいあきちゃん」吉田先輩は第三者だから口調は優しい。 「覚醒剤はやめろと」明子が口を開いた 「おまえシャブを使用していることを話したのか」  明子がうなづく。 「この馬鹿野郎が」そう言って俺は明子の事を蹴り飛ばした。 「まつ、もうやめとけ」吉田さんの一言  もう何を言っても無駄だった。明子は俺とのことをすべて話しているに違いない。  明子を部屋に残し先輩と部屋の外に出た。 「まつ、あぶりじゃなく一発注射を打ち込んだれ」そう言って先輩はグラムはありそうなパケ袋と注射器を俺に差し出した。 お金を払おうとすると先輩は今日は金はいらねえよと優しい言葉をかけてくれた。  俺は部屋に戻り今度は明子の事をなだめることにした。  胸の内には怒りの感情しかなかったが、その感情を押し殺した。 「今日は注射器が手に入ったからあぶりはやめだ」そう言って言い聞かせるも明子は拒否の姿勢を見せた。 ――覚醒剤はやめろ 神崎が言ったであろう言葉に従っているのか  俺は水で溶かした覚醒剤を無理やり明子の右手上腕部に注射しようとしたが、明子の抵抗もあり注射器の針が折れ曲がってしまった。 吉田先輩に連絡を取ろうとしたが、それもなぜかためらわれた。  仕方なく水パイプでいつもより多く吸っては止め、吸っては息を止めてを繰り返した。  明子にパイプを差し出してもその気がないらしく、その気にさせるのは難しく思われた。 「これで最後かもしれないんだぞ」別れる気などないのに思わせぶりな言葉を口にして、明子に無理矢理吸わせた。  明子とのSEXに夢中になった。顔の腫れてる明子。その顔の腫れが一層俺の欲情を駆り立てた。明子は何回もいった。最後は失神までした。  いったい何時間SEXをしてたのであろうか? 所詮、明子もポン中なのである。  SEXを終えると一気に疲れがやってきた。それと同時に明子との別れが近づいていることもなんとなしに理解できた。  悲しみがどこからともなくやってきた。  外にはもうお日様が照っている。その日俺はスロットに行かなかった。  コンビニまで食べ物を買いに、表に出たぐらいである。  夕方になり、明子が実家に行くと言い出した。  俺は好きにさせた。 明子が夜九時過ぎぐらいに帰ってきた。驚いたことは明子の弟と母親が一緒だったことだ。  なぜ母親が一緒なのだ? 明子に問いかけたかった。  明子が部屋に入ると「明子の母親です。少しばかりお時間いただいてもいいですか」そう言って、玄関で靴を脱ぎ室内に入り込んでくる。後ろには明子の弟が従っている。  明子の母親は部屋に入るなり言った。 「明子と別れてもらえませんか」 「それは二人で決める事ですから」無駄な抵抗とわかりながら、怒りを抑え、冷静に言ったつもりであった。 「別れてくれないのであればこの足で今から警察に行きます」 「どういう意味ですか」 「明子は捕まる覚悟で松永さんと別れたがっているのです」  明子は覚醒剤を使用していたことも母親に話していたのだ。もう引き留めることはできない。  わかりましたというほかなかった。  明子はすべてを母親に報告していたのだ。ソープランドで働いてたこと。俺がひもみたいな生活をしてること。そして覚醒剤を使用していること 「この部屋も今月中には引き払うので」  明子の母親は小太りであったが威厳に満ちていた。一言一言をはっきり口にする。  何か許せないような気がしてきた。それでも警察という言葉を口に出されたら引き下がることしかできなかった。  話はすぐに終わった。明子と母親、そして弟はすぐに帰って行った。弟は一言も声を発することはなかった。  俺は一人部屋に取り残された。  シャブをあぶる。  俺の明子に抱いてる感情は何だったのであろうか? ソープランドで働かせておきながら矛盾しているが、もしかしたら明子の事を知らぬ間に愛してしまったのかもしれない。そんなバカな話があるか?  明子を失いたくはなかった。でもこればかりはどうしようもない。  神崎と一緒になるのであろうな。 ――松永さんは看板持ってらっしゃるんですか  神崎の言葉が思い出される。堅気の俺はこのまま引き下がるしかないのか。  明子の事を愛しているなら、明子の気持ちを一番に優先させるべきだ。  それができない。覚せい剤に頭が犯されているせいかもしれない、  明子が部屋を去る際サラ金のカードを求められた。  明子が去るという事は俺のすべてを失うことに等しい。  俺は明子を失って部屋に一人取り残された。  吉田先輩からもらった覚醒剤はまだだいぶ残っていたが、その日のうちにすべてをあぶってしまった。それだというのに性欲はまるでわいてこなかった。  ただただ悲しみに打ちひしがれていた。  明子と別れるのはまぎれのない事実で決定事項である。  俺は男を見せることができなかった。今俺にできることはないだろうか?  黙ってこの場を立ち去るだけだ。  今日は九月十九日。今月中に部屋を引き払わなければいけない。と言っても俺の荷物など着替えだけである。  覚醒剤をあぶり続けて、俺の感情に芽生えているのは神崎に対する憎しみだけだ。  明子への想いは振り払うことにした。  神崎だけは許せん。  明子の母親と掛け合いになった時、なぜ俺は神崎と一緒になることだけは許さないと言わなかったのであろうか? まあ、言ったところで自分の価値を下げるだけだが。  真の男とは? 俺は侠になりたかった。  覚醒剤を使用してなければ、素直に別れてあげることができたであろう。  明子の本当の幸せを望めば。  明子と一緒に海を見に行った日が思い出される。  俺にかかわるとろくなことにならない。事実そうなった。  客で来ていた神崎が明子を口説いたのだ。  明子は明子でこれからの生活に不安を感じていたに違いない。体を張って稼いだお金が泡のように消えてなくなっていくのだ。  女はなんだって話してしまうものなのだろうか? 明子だけなのであろうか?  明子は覚醒剤を使用していることを神崎に話し、母親にまで話した、  認めたくはない事実であった。  悪いのは俺だった。俺は自分自身から逃げていた。考えることから逃げていた。  俺に残された時間、部屋を借りることのできる時間は後十日と少しの時間である。  どうすることもできなかった。現実を思い知らされた。  一日も眠れなかった。やはり俺は明子の事を愛していたのだ。  矛盾している。自分が大切に思っている女をソープランドで働かせるか?それでも俺は明子を愛していた。失いたくないだけではない。明子を愛していた。確信した。  明子の幸せを思えば明子の言うとおりにすればよかった。後の祭りだ。  一睡もできなかったその日、昼過ぎに明子の弟の信也が部屋にやってきた。  何しに来たかと言えば、明子の荷物を引き取りに来たのだった  明子は俺と顔を合わせるのもいやという事か?  仕方なかった。こればかりは致し方のないことであった。  信也は明子の車であるシビックで来ていた。  俺も荷物の搬出を手伝った。信也と言葉を交わすことはなかった。  言葉を交わせば自分がみじめのように感ずるに違いない。  明子の荷物が運び出されて部屋の中が空っぽになった。  信也が帰り際に言った。 「部屋の鍵は棚にでも置いといてください」  信也の歳はいくつぐらいなんだろう? 明子が24歳。信也はまだ二十歳ぐらいのガキに違いはあるまい。  年齢を聞くのもはばかられた。  信也の言葉にわかったと言って俺は部屋から送り出した。 9  吉田先輩に電話をかけて一連の流れを説明した。 「それもひどい話だな」吉田さんは言った。 「俺は明子の事を好きになってしまっていたのかもしれません」 「今日からしばらく俺の家に泊まるか」 「ありがとうございます。大丈夫です」 「あきちゃんと神崎は結局一緒になるのか」 「たぶんそうだと思います。看板を持っているのかという言葉が忘れられなくて」 「俺も秀彦に連絡とって聞いてみだけど、神崎の事は昔パシリで使っていたみたいだぞ」  秀彦さんさんとは地元の住吉会の組長で先輩とは兄弟分の関係である。 「あいつだけは許せません。必ずけじめを取ります」  先輩に俺の決意を言葉にして伝えた。 「一応相手はやくざ者だぞ」 「人の女を寝取っておいて、看板うんぬんが許せないのです」 「兄貴に相談して話つけてもらうか」 「大丈夫です。自分のけつは自分で拭きます」 「どうするつもりなんだ」 「とりあえず覚醒剤を体から抜きます」 「まつにはまつの考えがあるんだな。わかったよ、好きにすればいい」  まだいくらかのお金は持っていた。十万ぐらいの金であろうか?  今月中はまだ小名浜に借りてる部屋に住むことは許されていた。  一日中寝っ転がっていた。薬が切れると爆睡した。食欲も出てきた。  薬が切れると身体がシャブを欲していた。  俺は耐えた。あぶりとはいえシャブの切れ目がこんなにもつらいものだとは?  吉田さんには覚醒剤を抜くと断言した。今さら電話をすることは許されない。 10  神崎からけつを取る。それしか頭になかった。  どれぐらい部屋でゴロゴロしてたであろうか? それにしてもよく耐えることができたと思う  吉田さんには連絡を取りいわきの街を去ることを告げた。 「宇都宮に帰るのか」 「はい。目には目を歯には歯を、看板には看板をです」俺の言葉を聞いて、吉田さんはしばらく黙っていた。しばらくの沈黙の後、吉田さんは言った。 「いつでも遊びに来いよ。歓迎するから」  吉田さんは俺の悟った意味を理解してくれたようであった。  嬉しかった。あしたのジョーではないが言葉を交わさなくても互いを理解できる関係。  吉田先輩は俺のことを車で宇都宮まで送り届けてくれた。  シャブ中とはいえ男と男の関係。強い絆を感じた。  俺が向かった先は、以前共にゴト行為を行っていた兄貴分的な存在が所属するやくざの事務所だった。  事務所は東日本ホテルという前にあるアパートの二階だった。  二階のすべての部屋を稲川会出川組が借り切っている。  前日に電話を入れてたこともあり、角田は事務所にいた。 「舎弟にしてください」俺は角田に言うなり頭を下げた。  角田はまんざらでもない笑みを浮かべた。  出川親分もソファーに横になりスカパーで競輪の実況中継を見ていた。  親分が俺の存在に気づき「おお、まつか、元気にしてたかと聞いた」 「親分、松永が組員になりたいと言ってるのですが」  親分に言葉を返そうと思っていたやさき角田が俺の願いを代弁してくれた。 「三か月は部屋住みでもしてろ」  親分の言葉に俺はありがとうございますと言って深く頭を下げた。  部屋住みと言ってもそんなにつらいものではなかった。朝も7時とそんな早い時間に起きるわけではないし夕方6時を過ぎると親分は帰宅する。 部屋の掃除と車の洗車。後は昼過ぎに親分の持つホテル鬼怒川にお供として温泉に入りに行くだけだった。事務所には常備5人が詰めていた。  親分に山中事務局長、石川班長、親分の運転手の森、部屋住みの木野、それに俺。  森とは同い年であったが気が合わなかった。木野はまだ29歳。  俺は新参者とあって年下といえども木野さんとさん付けで呼んでいた。  ヤクザ社会は縦社会である。年功序列というわけにはいかなかった。 11 毎週日曜日の八時になると彫師が事務所を訪れる。夕刻4時になるまで八時間、彫師の堀峰は一日に四人の身体に彫続けた。一人二時間である。  まつも刺青入れてみたらどうだ。親分の言葉が嬉しかった。  部屋住みしてもらえる給金は一月三万円。他に麻雀のしょば代から二万円もらえるから一月五万円の支給となる。刺青の代金は全て親分が持ってくれるという。  俺は喜んでお願いしますと頼み込んだ。  感謝の言葉しかなかった。  事務所はいつも緊張感に包まれていた。それは親分がいる時間だけではあったが。  俺はそんな緊張感の中にいてもボーっとしてることが多かったかもしれない。  明子に対する未練を引きずっていたのだ。  俺の心をとらえてしばる。明子を忘れることがなかなかできなかった。  一度親分に名前を呼ばれても気付かなかったことがある。事務所に詰めてる人間には怒られたが、親分は笑って許してくれた。 「まつの名前は俺が考えてやる」親分が言った「政治に明るくなるようにまた俊敏になるように政敏にしよう」  俺はその日から松永政敏と命名された。  親分は俺の事を本当にかわいがってくれた。兄貴分である角田も喜んでいてくれてたみたいである。 12  部屋住みも一か月を過ぎると出川組の組員に顔を覚えてもらえるようになった。  出川組は稲川会の直参である。元々は稲川会岸本一家出川組であったのだが、東京の四ツ木斎場で住吉会の親分の殺傷事件があり、岸本親分が除籍処分となり稲川会の直参になった経緯がある。  喧嘩の岸本、殺しの大尊田と言われていて稲川会の二大巨頭であったが、大尊田一家は絶縁、家名抹消。岸本一家は親分が除籍となり今に至っているわけである。  稲川会の序列が変わってしまったことに俺は興味がなかった。  ただやくざの世界では看板がものを言う。岸本一家は無敵だった。山口組からもあそことは喧嘩をするなという噂も聞いたことがある。 除籍処分となっても岸本親分の写真は事務所に飾られてあった。稲川会の総裁、会長、石井二代目会長そして岸本親分だ。岸本の親分はとりわけかっこよかった。  俺が極道の世界で生きるようになったのは神崎からけじめを取るためだ。だが心のどこかで憧れがあったのかもしれない。まだ足を踏み入れたばかりであるが、徐々にこの世界のしきたりがわかってきた。完全たる縦社会。  わかったふりをしているだけなのかもしれない。 12  吉田先輩に連絡をとった。 ――元気にしてるか ――部屋住みにもだいぶ慣れてきました ――あきちゃんやっぱり神崎と付き合ってるみたいだな ――神崎からはケジメ取りますから見ててください。 ――俺が話し合いの場を設定しようか? ――それには及びません。あいつは俺に菱の代紋で圧力をかけてきたのです ――まだ店で働いてるぞあきちゃん  明子の事が嫌でも思い出される。いつまでも未練を引きずってる自分が情けなくもあった。 ――俺にかかわるとろくなことにならない  明子に打ったメールが今でも俺の手元にある。  明子とかかわった俺がろくなことにならなかったのかもしれない。そんなことはない。俺とかかわってしまったがために明子はソープランドで働く羽目になったのだ。  覚醒剤を使用していたころの自分を顧みてみる。異常だった。  部屋住みをするようになってまともな自分を取り戻せた。 ――やっぱり俺、おかしかったですよね。 ――まつは間違ってないよ ――正直まだ明子に未練引きずっているんです。 ――男は未練を引きずるものだよ  明子と別れるときに俺は条件を突きつけた。三百万支払うか神崎と別れる事。結局どちらも受け入れてはもらえなかった。 ――今は部屋住みですけど、それもあと少しの辛抱です。 ――何か力になれることがあったらいつでも遠慮なく言ってくれよ。そのときは力になるよ。  ありがとうございます、と言って電話を切った。  不思議だった。明子の容姿に惚れたわけではない。俺は出会った当時、明子にはまるで興味がわかなかった。女性としての魅力も感じてはいなかった。それだというのにいつも俺の頭を支配しているのは明子の存在だった。  何故に何故、明子がこれほどまでに俺を支配するのだ。  神崎に対する憎しみだけは消えることがなかった。  明子の本当の幸せを願えば、神崎と一緒になることが明子の幸せだと思えば、もう忘れたほうが良いのではないか?   俺が許せないのはやくざの看板を持ち出したことだ。  山口組の看板で俺に圧力をかけたのが許せない。 13  三か月の部屋住みが終わった。  俺は何かしのぎを探さなければならなかったが、それも杞憂に終わった。  栃木県の日光市の責任者に任命され、親分の仕事を任された。  十日で一割の金貸しの仕事だった。  日光にも事務所があり、責任者が懲役に服役していたこともあり、その代理だった。  日光の事務所に寝泊まりし、宇都宮の本部には週にいっぺん顔を出せばよい。  兄貴分の角田だけが厄介な存在だった。何かにつけて俺を呼び出すようになった。  神崎の事は角田にも話していない。  角田に話したほうが簡単に済みそうな気はしていたが、俺のプライドが許さなかった。さしでけりをつける。それは俺の決意でもあった。  酒好きの角田は夜になると決まって電話がかかってくる。それをうまくかわす方法はないか? やっぱりある程度の事は話したほうがいいのではないか? ためらわれた。  俺は吉田先輩に電話をかけた。日曜日の11時頃だったと思う ――久しぶりだな ――先輩に相談したいことがあって ――神崎と話をするのか? ――部屋住みもあけたものですから ――そうか、良かったな。ご苦労さん。ところで相談てなんだ ――玉地組の本部の電話番号が知りたいのですが ――神崎と話をつけるなら俺が間に入ってやるぞ ――どうしても本部に連絡を取り、神崎と話がしたいんです。 ――相変わらず強情だな。わかった、今日中に調べておくよ ――よろしくお願いします。  その日の夜も俺は角田と、ありがたやという屋台で酒を酌み交わしていた。  俺はお酒が飲めないわけではないが、弱かった。ビール一杯で顔が真っ赤になる。  そんな俺を毎日飲みに連れて歩くのだからたまったものではない。  角田と一緒にいるときに吉田先輩から電話があった。  角田には知られたくはなかったので挨拶だけすまし、メールで電話番号を送ってもらえないかと頼んだ。 「誰からの電話だ」角田の干渉には嫌になる。 「いわきに住む先輩からです」正直に言った 「いわきに先輩なんているのか? 何の話だ」ホンマに嫌になる干渉 「別にこれといって用事はないみたいです」 「俺には噓をつくなよ」 「はい」素直に答えるしかなかった。  電話を終えてすぐにメールが届いた。  ミュートにしてたこともあり、角田に気づかれることはなかった。  翌日、午後を過ぎたあたりに玉地組の本部に連絡を入れた。  俺の所属している組を名乗り、玉道会の神崎ヒカルさんと連絡が取りたいんですがと丁寧に話すことができた。  本部から神崎のもとへ直接電話が行くと思っていたら玉道会の事務所の電話番号を教えてもらえただけだった。  俺は仕方なく玉道会に電話をかけた。  驚いたことに受話口に出たのは神崎だった。神崎の声を忘れるはずがない。だがあえて丁寧な口調で言った。 「稲川会出川組の松永と言います。神崎ヒカルさんと連絡とって頂けないでしょうか」 「神崎はわたしですが、どんなご用件でしょうか」神崎は俺に気づいていながらあえて丁寧な言葉を使っているみたいであった。 「明子の件に決まってるだろうが」俺は挑発的な口調で言った。 「待ってくださいよ、明子の話はもう終わったんじゃないんですか」 「勝手に終わらせるなよ、神崎さん、あなたが言った言葉が忘れられなくて」 「俺、何か言いましたっけ」 「言っただろうが、松永さんは看板持っているんですかと」 「わかりました。一度会ってお話しましょう」下手な関西弁を聞くことはなかった。 「日にちと時間は任せるよ」角田の事が一瞬頭をよぎった。俺のほうで時間を指定すればよかったか? 「また改めて電話差し上げてもよろしいでしょうか」電話の向こうで動揺してる神崎が想像できる。愉快だった。  明子に未練はあったが、やはり俺の中には神崎に対する憎しみが勝っていた。  神崎からけじめを取れば明子を忘れることができるであろうか?  もし神崎が夜の時間を指定してきたら、角田になんて説明すればいいだろうか?  神崎から電話があったのは翌日の昼過ぎだった。  掛け合いの時間は夜であった。七時。三日後である。  角田には色々詮索されたが、いわき市に先輩に会いに行くとだけ告げた。 14  待ち合わせのファミレスに行くと神崎らしい人物を確認できた。時刻は約束の時間の10分前であった。  神崎一人ではなかった。隣には中肉中背の人物が座っていた。相手は二人だ。  なんで神崎はいつも一人ではなく、他のそれは部外者であるが連れてくるのであろうか?  俺は神崎の向かいに座った。  ウェイトレスが注文を聞きにやってくる。  俺は水だけもらい、何もいらないと言った。  神崎とその連れはコーヒーを飲んでいるようであった。  俺は席に着くなり言った「なんだってまた俺と神崎さんの話に部外者がいるんだ」 「わたし山口組は山健組の兼生会の山本と言います」 「おたくの名前なんて聞いてはいない。なんで神崎さんと俺の話に部外者がいるんだと聞いてるんだ」  俺は山本の自己紹介をはねつけた。 「山本さんは俺の先輩でもあって、今日約束してたこともあって」神崎という男の性根がわかった。 「何度も言わせないでくれ。なんで俺とおたくの話に山本さんがい必要があるんだ」 「申し訳ありません。俺もいろいろと忙しい者でありますので」神崎の口調は丁寧であった。以前聞いたへたくそな関西弁を耳にすることはなかった。 「まあ、どうでもいいわ。その代わり神崎さんと俺の話に一切口は挟まないでくれよな」  山本からの返事はなかった。どこかふてくされている。 俺ははなから本題へと切り込んだ。 「明子を寝取られたんだ。それに対してどうけじめをつけてくれるんだ」 「神崎は明子さんと入籍したんですよ」山本が横から口をはさんできた。 「あんたは引っ込んでろ!さっき言ったばかりじゃねえか」 喧嘩になるのは覚悟の上だった。  山本は黙った。そしてふてくされて顔のまま腕を組む。 「どうけじめをつければ納得してもらえますか」 「金しかないだろうがそんなことまで俺に言わせる気か」 「いくら包めば許してもらえますか」神崎の口調は弱弱しかった。 「そんなことまで俺に言わせるのか」 「松永さんがカードで借りた借金、俺がすべて支払ったんですよ」  噓に決まっていた。そんなこと火を見るよりも明らかであった。 「五百万で忘れてやる」 「それはあんまりではないですか」山本がまた横から口をはさむ。 「外野は引っ込んでろ!俺と神崎さんと話をしてる」 「五百万なんてとてもじゃないが用意できません」神崎はうろたえている。 「ならいくらなら用意できるんだ」  俺の胸の内を話せばお金なんていくらでもよかった。ただ神崎からけじめを取ったという事実だけが欲しかっただけに過ぎない。  俺が神崎にけじめの金を請求したところで、金を出すのは明子なのだ。  俺が明子にしてきたことを思い返してみれば、心が苦しくなった。  明子に対して未練があるのかと聞かれれば否めない。  神崎からけじめを取ったという事実があればそれだけでいい。  神崎は押し黙ったままだ。  俺は考えた。悩んだと言ってもよい。  普通であればこの手の話は五百、一千万の話である。  俺が求めているのは神崎からけじめを取ったという事実だけである。  明子に覚醒剤を教えたのは俺である。俺と付き合わなければソープで働くこともなかった。そして覚醒剤を使用することも。  俺はかっこよく生きたかった。事務所に詰めているまた出入りしている先輩に憧れるような人物はいなかった。  神崎は看板を持った小心者にすぎない。山本という人間まで連れてきてことからもそれは知れている。  ここは俺が折れよう。折れることに決めた。 「神崎さん、わかったよ、宇都宮からいわきまでの足代だけでけりをつけよう」 「ほんまでっか」へたくそな関西弁を聞いて気持ちが変わりそうになった。 「二十万で手を打とう」 「足代で二十万ですか」 「二十万が用意できなければ喧嘩しかないな」俺はできるだけゆっくりと言葉にした。  神崎は山本という男に視線を向けた。  神崎という男が情けなく思えてきた。自分では何も判断ができないのである。  山本がこくりとうなづいたようであった。  それを見たのか神崎はわかりましたとうなづいた。 「今日、今すぐというわけにはいかないので三日だけ時間をください。口座番号を教えていただければ三日以内に必ず振り込みます」  俺はその言葉を耳にして、店を後にした。 15  神崎との話はついた。三日以内に金は振り込まれるであろう。  俺は神崎からけじめを取るためにだけヤクザになった。  ――松永さんは看板持っているんですか。  俺の中にいつまでも根付いている感情。  本当にこれでよかったのであろうか? 話にけりはついたものの、心のどこかにしこりは残った。それが何かは俺にもわからない。  神崎は俺の言われるままだった。  三日待ってくれと言った。おそらく明子に金の無心をするに違いない。  それにしても拍子抜けした。  あれだけ俺に圧力をかけていた人間が、看板を持ち出しただけで人格が豹変したみたいであった。  出川組という看板の力が有無を言わせなかったのであろうか?  稲川会という看板のおかげであろうか?  ただこれから先、俺は極道という人生を歩んでいかなければならない。  後悔はなかったと言えば噓になる。  十日で一割の金貸しを任せてもらい、俺の中に存在する良心が傷んだこともある。  世の中金が全てのように思えてくる自分が嫌で嫌で仕方なかった。  一歩踏み出してしまった階段。昇り続けるしかないであろう。  俺はやくざの世界で成功するであろうか? 成功とは何か?金を持つことか? なんか違うような気がする。  自分のことを客観視するように努めるが、無理に思えた。  確かに覚醒剤を使用していたころの自分はとち狂っていた。  今はシャブに手を出すこともなく、健康的な毎日を送っている。  組から支給される給金も、日光を任されるようになり八万円にアップした。  ただ、目標と言える目標がなかった。  時の流れに身をまかせるだけなのか?  毎月二百万は稼いでいたゴト師の歴史。今は月に八万円の支給金額。  神崎との話がついて急に熱が冷めてしまった。  親分に対するあこがれはあった。  兄貴分の角田に対する感情。好きになれなかった。酒を飲みに行く先々で暴れまくっていた。  俺はヤクザには向いてないのかもしれない。  事務所に詰めてる組員とも感情が違うように思えてきた。  俺の胸のうちで相対する感情がいつもぶつかり合っていた。  やくざの世界に足を踏み入れておきながら、たいして年月、日にちも流れていないのに、はい、やめますは通らないと思った。  そもそも俺はやくざの世界からすでに足を洗いたいのか?  親分に対する憧れ、角田に対する嫌悪感  一人になって考える時間が多くなった。  覚醒剤を身体が欲していた。  兄貴分の角田もポン中であった。だが俺には覚醒剤を進めることはなかった。  自分がシャブ中でありながら、覚醒剤には絶対に手を出すなよと、事あるごとに角田は言った。  角田から見れば、俺は出来のいい舎弟だったのかもしれない。  角田の本心はわからなかった。ただ俺から見たら弱い者いじめをしてるちんけなヤクザに思えてきた。  その角田に頭を下げた。それが事実であった。舎弟にしてくださいと。  角田のがたいはでかかった。身長180センチはあり、太っていた。骨太でもあった。威圧感も半端なかった。  夜の街に出かけては行く先々で喧嘩を売り、時には暴力をふるい、恐喝まがいの行為を行っていた。  俺はいつも決まって傍観しているだけなのでよく怒られた。口うるさく怒られることもあったが俺に対して暴力をふるったことは数えるほどしかない。  俺はやくざとして本当にやっていけるのであろうか? 16 年の瀬も近づいている頃、足利銀行に俺は通帳記入に行った 神崎ヒカルの名義で二十万円の入金が確認できた。  話を終えた段階でけりはついたと思っていたが、通帳を見て改めて事の終結を確認することができた。  神崎に振り込み完了の電話は入れなかった。  後から知ることになるのだが神崎の名前は鈴木孝之と言った。  学生時代にヤンキーではあったが。パシリで、よくいじめられてたという。  俺は明子の人生の一部を壊してしまった。また神崎は俺の人生の一部を壊した。  巡り巡って人生のつけが俺のところに回ってきたのだ。必然として俺はその現実を受け入れることになる  兄貴分の角田と一緒にモーテルに泊まったことがある。角田には女がいたが、俺はデリヘルに電話をかけて女を呼んだ。その際ついた女がひろえと言った。  ひろえは一晩で俺の女となった。  彼女ができて俺の一日が変わったかというとそうでもなかった。  覚醒剤をしてた頃の決めセクが忘れられないのだ。  ひろえとのSEXは淡白なものであった。というより俺が淡白だったのかもしれない。  ひろえとSEXをしてても明子とのSEXを思い出してしまうのだ。  神崎からけじめを取ることはできた。それだというのに。  もう終わった話なのに俺の心はどこかもやっとしていた。その正体は自分でもよくわからなかった。  明子に対する未練はまだ忘れられずに俺の心をとらえて離さない。  例のごとくまた自己嫌悪に陥った。  最後に明子と話をしたのは母親と弟の信也と一緒だった。  明子と二人で話をしたかった。――何を話すというのだ。もう一人の自分が問いかける。  明子と二人きりで話す方法。それは一つしかない。  明子の働いてる店に客として足を運ぶのだ。  電話を掛けるのも考えられたが、神崎からけじめは取ったのだ。明子に電話を掛けたところで人の女になんか用事があるんですかと言われたら元も子もない。何か因縁をつけられてもかわす自信はあったが、面倒は避けたい。それに明子は電話番号を変えているかもしれない。  店に行こうと決めた。客として行くぶんには神崎に文句を言われる筋合いもない。  覚悟を決めた。 17  店の入り口入浴料の六千円を払うと指名はありますかと聞かれた。 「もえちゃんお願いします」もえという源氏名は俺がなづけたものだった。 「さきちゃんの事かな」店員が首を傾げた。 「加奈ちゃんの紹介で入店したもえです」 「やっぱりさきちゃんですね。最近改名したばかりなんですよ」店員が微笑みかけてくる。 「さきちゃんの指名でお願いします」 「一時間ほど待つことになりますが、かまいませんか」  はいと言って俺は頷いた。  待合室はカーテンで仕切られていた。  ダウンライトは少しばかり暗く感じた。  待合室には俺を含めて四人ばかりの客がいた。客は店内にある雑誌を読んで各自、順番を待っているようであった。  俺も日刊スポーツを手に取るものの新聞の内容はまるきし頭に入ってこなかった。  時間の経過がものすごく長く感じた。  あれこれ考えを思い浮かべてみる。明子はどんな反応を示すであろうか?  明子に拒否されれば俺は黙って店を去るしかない。  俺は話がしたいだけであった。また渡さなければいけないものもある。  店の従業員が待合室にやってくる。俺はまだかまだかと待ちわびた。  入店したのが午前11時だった。  明子が早番で出勤していることは吉田先輩に調べてもらった。  夕方になれば、また角田から電話が入ることだろう。いわきに来ている事だけは知られたくなかった。  時間ばかりを気にしていた。時計ばかり見ている自分がどこか滑稽に思えてくる。また痛ましく思えるのも気のせいであろうか? 「お待たせしました」店員に声をかけられた。時計は12時を回っていた。 待合室から出ると階段の下に明子がワンピースを着て正座の姿勢で頭を下げている。  明子の前まで従業員が誘導してくれる。  明子が顔を上げた。  目と目が合う。  一瞬驚いた顔を見せた  明子は俺を拒否しなかった。  明子に連れられて二階の個室へと案内された。  部屋に入るなり明子が言った。 「店まで来るなんて思ってもみなかった。神崎に知れたら、また何かしら落とし前っていうの?取られるわよ」  それを聞いた時、俺は耳を疑った。何も言葉にすることができなかった。  でも明子は笑顔で俺を受け入れてくれた。 「今日は話がしたくて来ただけだから、風呂だけ入って帰るよ」 「前金なんだけど、それは知ってるでしょう」 「俺は財布からお金を取り出して、明子の手に二十万円を渡した」  明子は先ほどと同じく驚いた顔を見せた。  神崎は二十万の金を明子に無心したに違いない。先ほど見せた驚いた顔がそれを証明している。二十万円の金額に驚いたわけではない。その金が神崎が無心したであろう金額と一緒だから驚いたのだ。  俺は服を脱ぎ裸になった。まだ仕上がりの遠い刺青を見ても明子は驚かなかった。 「俺がけじめを取られたんだ?」俺は聞いてみた。  明子の答えはなかった。俺が脱いだ服をたたんでいる。 「悪かったな、明子には本当にすまないと思っている」 「もう過ぎた話だから」  俺は浴槽に浸かった。  明子が身体を洗おうかと声をかけてきた。まだワンピースを着たままだった。 「二十万なんてもらえるわけないじゃない。料金は一万円なのに」 「入籍祝いだと思って受け取ってくれ」  明子は少しためらっていたが、ありがとうと一言言葉を返した。  風呂には身体を入れただけだった。烏の行水。すぐさま湯船から出た。  明子が俺の身体をバスタオルで拭こうとする。  俺は断った。明子からバスタオルを取り上げ自らの手で身体を拭いた。  明子と会うことができて未練を断ち切ることができた。  ――本当に断ち切ることができたのか?俺は自らを問う。  間違いないと思う。俺がけじめを取られた話になっているが、それでもいいと思えてきた。  明子に抱いてた感情は何だったんであろうか?  俺はソープランドに一人の女を沈めたんだぞ。無垢な女に覚醒剤を教えたんだぞ。  自らを責めた。  風呂から上がり、個室のベットに二人並んで座った。  交わす言葉もなく時間だけが過ぎて行く 「俺とかかわるとろくなことにならないと言ったことを覚えているかい」 「今はわたし幸せだから過去の事はもう忘れて」  沈黙が続いた。その沈黙を打ち破るようにアラームの音が、ピピピ、ピピピと鳴った。  もう明子と会うことは二度とないであろう。  明子に会うことができて、俺の中にうずくまってた未練を断ち切ることができたと思う。 「もう時間だから」明子が言った。どこかはかなげな顔をしているようにみえた。気のせいであろうか? 「幸せになれよ」それしかかける言葉がなかった。 「ありがとう。ひろも幸せになってね」  ひろと呼ばれて昔が思い出された。  部屋を出る際、――ありがとうございましたと明子の声が背中に聞こえてきた。  俺は振り返らなかった。振り返ってはいけないと思った。  断ち切ることのできなかった未練を断ち切ることができた。そんな気がしてならなかった。
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