涙雨

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 涙雨(なみだあめ)が余計に僕を感傷的にさせる。祖母の命日でも、両親の命日でもないけれど、なんだかとても、心が乱される。雨の日はあまり得意ではない。ついでに言うならば、雷はもっと苦手だ。  両親の葬儀が行われた日、葬儀会館を出てしばらくすると、夕立に見舞わられた。黒塗りの車の中にいた僕は、窓に張り付いた雨粒を見るともなく見ていた。  当時小学三年生の僕には、死を受け入れるという感覚を理解するのは難しかったように思う。死の意味は理解できても、あまりにも非現実的すぎて、頭と心が追いつかなかった。両親がいないことだけは確かで、悲しいという感覚もあった。それなのに、ずっとうまく泣けないでいた。  祖母に手を引かれ、静まり返った我が家へ帰り着いた頃、夕立は一層激しさを増していた。空に雷光が走ったかと思うと、雷鳴が轟いた。大きく肩を揺らして驚いた僕は、勢いよく祖母に抱き付いたのを覚えている。瞬間、(せき)を切ったように涙が溢れた。  怖くて、怖くて、悲しくて、悲しくて……  二つ並んだパーソナルチェアが雨に濡れている。長野県も昨日から梅雨入りし、今朝は雨が降ったり止んだりと、空模様は不安定だ。  ここ一ヶ月で、春妃(はるひ)の生活に変化があった。彼女が、例の仕事を辞めたのだ。聞けば、新卒で入社した会社がいわゆるブラック企業で、サービス残業は当たり前、アナログすぎる上司と、会社に洗脳された先輩の理不尽な言動にその他諸々。同僚が次々と辞めていく中、意地で仕事を続けていたらしいのだけれど、何でもない日の朝、不意に全てが馬鹿らしくなり、あっさりと退職願を提出し、きっちりと有給を消化したと言っていた。そこまでならなくもない話だけれど、そこから何があって方向性が急に変わったのか。さらに話を聞くと、自分の人生で選ばないであろう仕事をしてみようと思ったらしいのだ。僕も変わっていると言われることは多いけれど、僕以上に面白い人だと思った。  春妃もまた、風俗に対しての偏見はなく、初めこそ緊張したと言っていたけれど、そもそも、行為が好きなのだと、照れながら教えてくれた。  彼女は今、僕の亡くなった父親が経営していた会社で受付のアルバイトをしている。もちろん、コネ入社だ。正社員ではなくアルバイトでと頼んだのは、時間の融通が利きやすいからだ。完全に僕のわがままではあるけれど、すんなり受け入れてくれるあたり、やはり彼女は変わっている。  今日から週末にかけて、久しぶりに春妃がここへやって来る。  先月、仕事を紹介する際に東京で会ったきりなので、二週間ぶり以上だ。  朝から落ち着かなかった。彼女に会うからそうなっているだけならまだしも、雨が、僕の情緒を刺激する。精神的な苦しみと倦怠感に同時に襲われる。こんな時は余計に、自分の病気を恨めしく思う。慣れたとは言え、それが今日でなくともと、自己嫌悪を感じずにはいれなかった。  春妃とは、お友達の関係になってからはお互い裸になっていない。いわゆる体の関係は、四月に客として彼女と会った時が最後で、あれ以来僕は、どこの店の客にもなっていない。つまり、女を抱いていない。正直なところ、電話一本で手軽にができるならそうしたいところだけれど、ずっと躊躇していた。  だから何が言いたいのかと言うと、春妃とセックスがしたいということだ。  タクシーから春妃が降りてくるのを見つけ、足早に彼女の方へ向かう。白い傘が開き、久しぶりに向けられた笑顔に胸が苦しくなる。ついでに言えば、僕のはしっかりと反応した。  六月とは言え、雨が降るとまだまだ肌寒い。春妃に適当なカーディガンを貸し、自分も部屋着を着込んだ。すぐにお湯を沸かし、コーヒーが得意ではない彼女のためにココアを用意する。  誰かのために自ら動いて何かをするのは、とても不思議な感覚だった。東京の家にいた時は、自分の動線には常に全てが揃っていて、わざわざ言葉にせずとも欲しいものはそこにあったし、言い寄ってくる女に対しても、ここまで気を遣ったことがない。そこだけ聞くと、ただただ何もできないひどい奴だなと、彼女に気付かれないよう自嘲してこっそり笑った。  湯気の立つココアを春妃の前に差し出すと、ぶかぶかの袖ごとマグカップを受け取った。ありがとうと言いながら柔らかく微笑むから、正直、自分の反応が童貞のそれとなんら変わりないと思ってしまった。中学生の僕と、これっぽっちも違わない。好きな女性にドキドキして、頬と下半身が熱くてたまらなくなる。
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