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僕は大人で、彼女よりも年上で、俗に言う大人の余裕なんていくらでも持ち合わせていると自負していた。けれど、そういったあれこれは、恋をすると全て事情が変わるらしい。
調子は狂うけれど、悪くはない。
「──春妃」
僕をちらりと見上げてから、持っているマグカップをソファーの横にある小さなローテーブルに置いた。
「僕、雨があまり得意じゃないんだ。その、いい思い出がなくて」
久しぶりに会うのだから、もっと他に話題があっただろうと、言ってから後悔した。
伏せ目がちになっていると、伸びてきた彼女の手が僕の頭を優しく撫でた。思わず、笑ってしまいそうになった。可笑しいからではなくて、心理的な反応だ。とにかくその不意打ちは、僕の下半身を煽るには十分だった。
落ち着いた様子の彼女とは反対に、全くもって落ち着いてくれないそれに、どの感情でいればいいのか分からなくなる。会う前は、春妃とセックスがしたいなどと調子のいいことを思っていたけれど、いざ彼女を目の前にすると戸惑ってしまった。
「──体調は、どうですか?」
僕の頬に手を添えた。
強がりそうになって、言葉を飲み込んだ。
「少し倦怠感があるけど、一人じゃないのが救いかな」
格好をつけたつもりは一切なかったけれど、言ってから嫌味に聞こえなかっただろうかと不安になった。けれどすぐ、彼女が表情を緩めるから、ほっとした。保守的とは違う、けれどそれに似ているこの感じは、一体なんなのだろう。
彼女が体ごとこちらに向き直り、僕を抱きしめた。
「一緒にいられて良かったです」
最高の言葉に、正面から思い切り殴られたような気分だ。それも、鼻をへし折られるくらいのパンチ力はある。
「これから、雨の日には楽しいことしませんか。そうすれば、どんどん楽しい思い出に変わっていくはずです。一人が難しいなら、私も一緒に、ね?」
彼女の言葉は、全てが僕の胸に突き刺さる。
少し前までの僕なら、早くことに進みたいがために、女に調子を合わせ、思ってもいない言葉を口にしていただろう。それも、めちゃくちゃそれっぽくだ。こう見えて、自分のペースに持ち込むのは得意だった。それが今では、人が変わってしまったみたいに、いや、変わってしまったのかもしれない。
これは確かに保守的ではない。しっくりこなかったこの感じの正体は、ただの弱気だ。
「私がいますよ」
僕の胸に頬を押し付けながらそんなことを言われては、大げさでなく心が震えた。今まで、自分の味方は祖母しかいないと思っていた。だから、唯一だった家族以外に、こんな優しいことを言われたのは初めてで、正直戸惑った。どう答えていいのか分からず、彼女の背中に腕を回した。うまくありがとうが言えない。代わりに、力強く抱きしめた。
もちろん夜は春妃とは別々の部屋で寝た。何しろ僕たちは、お友達だ。ただ、悶々とした気持ちは抑えられず、シャワーを浴びながらこっそり右手で気持ち良くなった。
翌朝、目が覚めて一階のリビングに降りると、先に起きていた春妃が窓のそばに立っていた。
「おはようございます」
鈴を転がすような声が朝から耳に心地いい。外から射し込む太陽の光が、彼女に似合いすぎていて思わず見とれてしまった。
「──おはよ」
見事な掠れ声に、寝起きだからだと心の中で言い訳をする。
「今日はとても天気がいいですよ」
彼女のそばへ行き、外へ目を向けると、昨日とは打って変わって青空が見えた。
「あの──」
春妃が僕を見上げる。
「あとで、散歩でもしませんか?」
「え?」
驚いて彼女を見つめ返す。
「体調、まだ良くないですか?」
「いや、そうじゃなくて。散歩でもしようなんて言われたことないから、ちょっと驚いて。僕、ここに住んではいるけど、あまりこの辺りのこと知らないんだ」
そう答えた僕に、それならちょうどいいと彼女が言った。
今朝は彼女のために紅茶を淹れた。昔、祖母が愛飲していた紅茶だ。確か、ロシア産まれのフランス育ちだとかなんとか言っていたやつだ。フレーバーティーが苦手な僕でも飲みやすいものをと教えてくれたのがこれだった。とは言え、今では完全にコーヒーに移行してしまったことは、祖母には内緒だ。
実のところ、春妃がここへ来ると決まってから、色んなものを取り揃えた。もてなされることは多かったけれど、いざ自分がする側になるとさっぱりだった。
キッチンに立ちながら、少しばかり緊張していた。
定期的に届けてもらっている店に、いつもはほとんど頼むことのない果物まで注文したのはもちろん彼女のためだ。
厚切りの食パンに、副菜をいくつか。出来合いのそれらを皿に盛り付けるだけなのに、誰かのためにするとなると、気持ちがこうも違うのかと思った。
紅茶を口にした彼女が、目を細め、口の中で美味しいと呟いた。
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