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昨晩ずっと降っていた雨の名残はあるけれど、歩けないほどの足場ではなかった。
誰もいない山の中を、二人並んで歩く。たったそれだけなのに、あまりにも新鮮で、なんだかこそばゆい。
山道の両脇には背の高い木々が生い茂り、場所によっては空まで遮るほどだった。その木々の隙間から、まるで天使の梯子のように太陽の光が射し込む光景には、僕も春妃も思わず足を止めて見入っていた。感動することすら、久しぶりの感覚だった。
しばらくすると、濃い青色の紫陽花がちらほら咲いていた。さらに歩くと、その数はどんどん増え、丸々とした紫陽花が群れを作っていた。綺麗だと言って、嬉しそうに僕を見上げる彼女に、お前の方が綺麗だと、お互いが恥ずかしくなってしまいそうな言葉が頭に浮かび、それをすぐさま振り払う。
紫陽花の群れを通り過ぎると、途端に空気が変わったような気がした。急に涼しくなったような、そんな感じだ。すると、目の前に石段が見えた。落ち葉で覆われてはいるけれど、それは明らかに石段だった。
思わず顔を見合わせた。お互い、好奇心には勝てなかった。ゆっくり登る僕に、彼女が歩幅を合わせてくれる。
少し登ると、真っ黒な鳥居が現れた。鬱蒼としているこの森に同化していて、全く気付かなかった。
「……神社?」
独り言のように彼女が言った。目だけで僕に聞くけれど、僕もここへ来たのは初めてだ。この土地を譲り受けた時にも、祖母からは何も聞かされていない。
最後の石段を登りきったその先には、何もなかった。てっきり何かしら建物があるとばかり思っていたけれど、こじんまりとした公園くらいの広さのそこは、草が乱雑に生い茂っているだけだった。
なんとなく、期待外れな感じは否めないけれど、だからと言って何かあってもそれはそれで困る。辺りをぐるりと見回し、これ以上先には進めそうになかったので、大人しく引き返すことにした。
振り返ると、視界に入る全てが輝いていた。まるで、夜景でも見ているかのようだった。雨上がりの森に太陽の光が反射しているのか。それとも、この辺り一体の自然が特異なのか。とにかく、目の前の不思議な光景に息を呑んだ。
「ここは、この景色を見るための場所だったんですね」
何を納得したのか、彼女が言った。けれど、納得せざるを得ないとも思った。確かにこれは、一見の価値がある。祖母は、これ知っていてこの山を買ったのだろうか。
満足げに微笑む春妃に心が満たされる。
来た時よりも、心なしか体が軽い気がした。昨日と比べると、格段に違うのは天候が理由というのもあるだろうけれど、この感じ、前にもあった。
紫陽花が群れている場所まで戻ってくると、彼女が再び立ち止まり、にこにこしながら紫陽花を眺めている。こんなにも彼女を笑顔にできるなら、ここにある全ての紫陽花を引っこ抜いて持って帰りたいと思った。そうしていると、突然頬に冷たいものが当たった。空を見上げると、来た時とは打って変わって太陽が雲に隠れてしまっている。あと少しだけ持ち堪えてくれればと、帰路を急いだ。
ぽつりぽつりと降り出した雨は、途中までは背の高い木々が傘になってくれていたおかげで助かっていたけれど、ようやく別荘の屋根が見えてきた頃になって、雨足が強まってきた。
もはや、急いだところでだ。
山の天気は変わりやすいとは言うけれど、今でなくてもと思った。せめて傘の一つでも持ってくれば良かったと、思ったところで今更だ。けれど、僕の気持ちとは裏腹に、彼女は楽しそうにしている。
「こういうの、なんだか懐かしいなって。その、雨が得意じゃない人の前で言うのもあれですけど、学生の頃は、小雨くらいなら気にならなかったし、雨に濡れても友達と笑っていられたなって」
前髪をかきあげながら、僕を見てふっと笑った。
「だけど──」
前に向き直り、彼女が続けた。
「次第に大人になると、雨の日に傘をささないなんてありえないと言うか、抵抗感が強まると言うか。なんでもないことすら、楽しめなくなっていってるような気がして。なんて言うかその、うまく言えないですけど……」
「ううん、言いたいこと分かるよ」
僕が答えると、すっと目を細めた。
別荘に着いた頃には、二人ともずぶ濡れだった。彼女は客用の、僕は寝室にある浴室へとそれぞれが向かった。
雨で冷えた体に熱めのシャワーが沁みる。ゆっくり頭からかぶっていたいけれど、それはまた夜にしようと、さっさと浴室を出た。
ウッドデッキを打ち付ける雨音に心が苦しくなる。意識がそちらにばかり向いてしまい、雨の中から目を逸らせずにいると、後ろかろ、柔らかいものが僕の体に巻き付いた。
「温かいココア、作ってくれませんか?」
はっとなり、自分のお腹辺りに目を向けると、上気した春妃の腕があった。
いつの間にそこにいたのか、気配すら感じなかった。
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