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おたまじゃくしの憂鬱
医療の現場では、性行為をコイタスと呼ぶ。
性の生々しい響きから遠ざかるからか、それとも仕事で深く関わるから慣れてしまったのか、女性職員が大半を占めるこの培養室では普段からディープな会話が繰り広げられる。
「タイミングとる夫婦って、どうやってコイタスに持ち込むんですかねえ?」
一日の業務がほぼ終わり、退勤の近づいた時間帯。培養容器でいっぱいになったゴミをまとめる作業をする須藤奈央の耳に、先輩たちの明け透けな会話が勝手に流れ込んでくる。
「普通に、婦人科で言われたからって誘うんじゃない?」
タイミングとは、不妊治療における第一ステップのタイミング法のことだ。排卵日前後に合わせて、医師からコイタスの指示が出る。
「そっかあ。じゃあ彼氏への誘い文句には使えないですね」
「なになに、森本さん悩み?」
森本と前川の会話に、培養士長の山上まで加わって、いよいよ収拾のつかない裏話になりそうだった。
「最近ね、彼氏と気分が合わないんですよー。誘ったら拒否られたり、誘われたときには生理だったり」
中野が休みの日は、いつも話題が女の方向に突っ走る。年中無休の培養室を、新人の奈央を含めた七人でシフトを組むので必然的に週に一度はこんな日が訪れるのだ。
「ええー、拒否るってなんで?」
主任の北村まで話に乗るので、もうこれは今日いっぱいこんな話題に終わることが決定したも同然だ。できるだけ自分に矛先が向かないように、奈央は丁寧にゴミ袋を縛り上げる。
背中にコイタスの誘い文句が追いかけてくるなか、培養室を出た先にある安静室と採精室の後片付けへ向かった。
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