おたまじゃくしの憂鬱

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***  翌日。出勤した奈央は、更衣室で綺麗目のワンピースから半袖と長ズボンの白衣に着替え、培養室へ向かった。  入り口前でマスクと医療帽を装着して、エアシャワー室の扉を開ける。スイッチを押すと、ものすごい風圧が体の塵や埃を取り去るのだ。  風を受けながら、出会いの場に行くというのにヘアスプレーを忘れたことに気づく。医師が手術の際に被るような医療帽を一日中被っていると、髪はペシャンコに癖がついてしまう。そんなの期待も半減だ。  前川に借りようと考えながら反対側の扉を開け、培養室の準備に取りかかった。  奈央の働く『佐々原レディースクリニック』は、もともとお産がメインの産婦人科の病院だったのが、六年前に不妊治療に特化した分院を建てて以来、不妊の分野にもかなり力を入れている。  院長の長男である佐々原聡一医師が不妊治療センター長を勤め、数名の専門医が不妊症の診察を行なっている。  奈央の所属する培養室のメンバーは、不妊治療センターのなかでも普段はほとんど患者の前に姿を見せない裏方だ。  胚培養士という資格を持つ者が六人。三年目の小谷がこの春に胚培養士認定試験に晴れて合格したのだ。  そして奈央は、ひよっこ。体外受精、顕微授精の知識と経験を叩き込み、胚培養士になるために励む身だ。  患者の体内から取り出した卵子が、精子と受精して、細胞分裂を繰り返す胚という状態へ育ったら患者の子宮へ戻す、という一連の治療がある。  胚培養士は、そのなかで卵子、精子、胚を扱う技術職なのだ。
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