おたまじゃくしの憂鬱

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 奈央は朝一番に出勤し、胚を扱う机であるクリーンベンチと、そこに備え付けられた顕微鏡を整え、必要な培養液を温める。  培養室にはクリーンベンチは三台あり、顕微鏡に至っては顕微授精用の精密機器も含めると、八台もあるのだ。  準備を進めていると、誰かがエアシャワーに入った風圧の音がブオーンと聞こえてきた。いつも出勤の早い小谷か中野かな、と予想しながら、部屋の奥にあるパソコンを開いて今日の処置の予定を確認する。 「おはよう」  足音が聞こえなくてうっかりしていたら、中野が背後にいて驚いた。中野は、職業病なのか元からなのかわからないが、歩き方が丁寧で早い。 「おはようございます。忍者みたいですね」  マスクと医療帽の隙間に覗く中野の目が、キョトンを経て微笑んだ。 「なにそれ」 「足音しませんでしたよ」 「ははっ。癖だね」  言いながら中野は隣のパソコンで融解する胚の確認をしている。  これまでとっかかりがなくてあまり話しかけることがなかったけれど、しゃべると意外に笑ってくれるんだなと気づいて嬉しくなる。  中野の真似をして静かにそろりと歩こうとしたとき、横で中野がまた笑った。 「忍者を目指すんじゃなくて、転ばないように歩いてね」 「えへへ、そうですね」  転ばない、つまずかないことは大前提でとても大事なことなのだ。中野ほど常にではないけれど、他の先輩方も胚の入ったシャーレを運ぶときは皆、歩みが丁寧で、それでいて早い。  卵子や胚は、外気や光に影響を受ける。培養器の中から取り出している時間はできるだけ短いほうがいい。だからみんな、集中した、ゆったりとした早さの歩き方をする。
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