人里、あるいは山奥から麓まで

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 鹿は言葉を返さない。  偉そうに講釈した内容が既に僕が知っているものであったのだから、きっと恥ずかしいのだろうと、僕は少し鹿に同情する。  しかし、そんなことは全ての生き物が知っていることだ。  鹿は黙っている。  沈黙が少し痛いので、場繋(ばつな)ぎに僕は漠然と思った正直な疑問を、鹿にぶつけてみた。 「あの、そういえばちょっと思ったのですが……」 「はい?」 「皆、人間と話すことはできないのに、犬とか馬とか、どうして動物同士だと話せるんでしょう?」 「……そういえば。でも、たぶんまぁ、雰囲気じゃないですかね」  ……雰囲気。  さっきから、なんだか雰囲気ばっかりだな、と僕は思う。  もしかしたら、世の中は僕が思っている以上に適当なのかもしれないし、それでいいのかもしれない。  であれば、とりあえず馬に謝ろう。  非常に申し訳ない雰囲気を(かも)し出していけば、何となく雰囲気で許されて、そこはかとない雰囲気で、どこかの駅まで乗せてもらえるのではないだろうか。そして雰囲気で切符を買おう。  最終的に人間を食べた後、感謝している雰囲気を出しておけば問題ないはずだ。  きっとそうだ。  感謝の心があれば、きっとなんとかなるはずだ。  むしろ馬が許してくれないのであれば、いっそ馬を食べてしまえばいい。あれはあれで旨いのだし。  あるいは馬がまた逃げるようであれば、まだ僕を警戒していないこの世間知らずの鹿を食べてしまえば、それはそれで満たされる。  ――感謝さえすれば、万事問題ないのだから。  感謝という最強の免罪符を再認識した僕は、心が高鳴って止まらない。  目覚めたばかりのこの時期に毎年胸が踊るのは、きっと春の陽気のせいだけではなく、生まれついての強者たる僕に広がる大きな可能性を再認識しているからなのだ。  僕はそう思い、まずは鹿に感謝することにする。  また後で出会えるとも限らない。  僕が目付きを変えると、鹿は初めて僕を警戒したように見えたが、少しばかり遅かった。  全ての出会いは、一期一会なのだ。 〈了〉
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