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夕方。そろそろかなと思っていた頃に、ドアを開ける音がした。
帰ってきた。今までにない緊張感に、手が震える。
リビングのドアが開いた。
圭一さんと、目が合う。
「お帰りなさい」
「…ただいま。」
きっと長期戦になると思っていたんだろう。
昨日の今日で、私が自分を待っていた事に驚いた様子だった。
「お買い物、行ってきてくれたの?」
「あ、ああ、メモを見た?
今夜は俺が作るから、君は座ってて」
そう言いながら、彼が冷蔵庫に材料をしまっていくのを私は静かに見つめ、口を開いた。
「圭一さん。先にお話しましょ。
こっち、来て」
圭一さんの手が止まる。
そしてそっと冷蔵庫を閉めると、私の所に来てくれた。
「ここ、座って」
圭一さんをソファに座らせる。
彼は何も言わずに私の言う事を聞く。
「目、瞑って」
しかし、この突拍子もない指示には、さすがに彼も困惑した様だった。それでも一瞬で、素直に目を瞑る。
私は彼の前に膝をつき、銀縁の眼鏡をそっと外す。
「…なにを」
そして彼の言葉を塞ぐ様に、キスをした。
びくりと彼の体が震える。
そんなのお構いなしに、私はそのまま押し付ける様にキスをして、彼の背中が背もたれについても尚、し続けた。
最初困惑していた彼も、行き場のなかった手を私の腰と頭に添えて、いつしか夢中で私の口を貪った。
はあはあ、という二人の吐息と、時折唾液が混ざり合う音。
初めての筈なのに、どうすればいいのか分かる。
私なりに彼に答え、彼も私を更に翻弄した。
そうしてどちらかという事もなくそっと離して、至近距離で見つめ合う。
「…なんで」
「ずっと…こうして欲しかった」
枯れていた筈の涙がまた頬を伝う。
「かほり…!」
そのまま強く抱きしめられ、私は声を押し殺して泣く。
今のキスで分かった。彼も、ずっと私に触れたかったのだと。
「どうして触れてくれなかったの…?」
「触れれないよ…俺なんかが…」
彼の言葉の意味が分からなくて、私はやはり、あの事を聞かなければならないと思った。
意を決して、口を開く。
「本当に、あなたは出世のために私と結婚したの…?」
自分で言ってて虚しかった。
彼もしばらく黙っていたが、私を抱く手に力が籠った。
「…正しくは、そう、思おうとした」
ついに、私は真相を知る時が来たのだ。
ぽつり、ぽつりと彼が話す。
「…正直、君との結婚の話が持ち上がった時、かなり困惑した」
指先が冷えていく。
私は、この事実を受け入れなくてはならない。
「仕事にやりがいを感じて、社長にも認められたのは嬉しかった。
だけど、この会社を背負う事になるとまでは思わなかったんだ。
責任、重圧、色んな物が一気にのしかかった。
でも相手は、社長の娘。断れるはずもない。
急に自由を奪われた気が、した。
だから、俺は出世のために結婚するって思う事にした。
自分を捨ててやる、そう思ったんだ」
私のせいだ、と胸が痛んだ。
私が彼を想ってしまったために、父は強行した。
彼を追い込んでしまったのは、私だ。
「ごめん…なさい。私の、せいで…」
すると、彼がにこやかな表情で私の口に人差し指を当てた。待って、と言わんばかりに。
そしてその手で私の髪を耳にかけ、優しく撫でながら口を開く。
「君が、最初から俺を慕ってくれていたのは知っていた。
そんな君を騙す様で心苦しくて、でも俺にはどうしようもできない。
こんな暗い感情を持ったまま結婚した俺が、純粋に俺を想ってくれる君に触れられる訳がない。
でも君が不安に思っている事も知っていたから。
もう少し時間を置いてから、もう少し、もう少しと俺は逃げていた」
撫でていた手が、今度は私の唇に降りて、親指で撫でられる。
ぞわりと、背中が粟立つ。
「それでも君は尽くしてくれた。俺なんかのために。本当に申し訳ない気持ちと、次第に愛しさが膨らんだ。
それはどんどん膨らんで、君に触れたくなった。きっと俺が望めば、君は喜んで自分を差し出すだろう」
顎をくいと持ち上げられ、額にキスをされた。
チュッというリップ音が響く。
「でも、この暗い感情が君に知れたら?
半ば八つ当たりで君と結婚した事が、知れたら?
君を知ったら、俺はもう君を離せない。
でも、君は俺から離れてしまうかもしれない。
そう思ったら、ますます君に触れられなかった」
そして再びぎゅっと強く抱きしめられる。
彼の暖かい体温が、心地よい。
「だけど、ここ最近の君は本当に可愛くて困った」
ぱちり。一瞬でぼんやりしていた頭がはっきりした。
彼の胸にもたれかかっていた私はむくりと起き上がり、彼を見る。
「いつもきっちりしている君が、ある日寝癖で現れた時は、思わず抱きしめたくなったよ」
一気に熱くなる頬。
「そ、それは…」
「その後もまるで子どものようにはしゃぐ君を見て、もう抑えられない事を知った。
愛しい。君がたまらなく愛しい、と」
彼の右手が私の頬を包み込む。
私も愛おしくて、その手に、自分の手も重ねる。
「ここ数日は本当に楽しかった。
どうしてもっと早くこうしなかったんだろうって。
君をいっぱい不安にさせた。
本当にごめん。意気地のない男で」
声を出したら、また涙が出そうだ。
代わりに、首を横に振る。
「こんな形で君が知ることになってしまって、本当に申し訳なかった。
いつかは自分で話すつもりだったんだ。
…いや、どうだろう。あれがなかったら、俺は今も君を騙したままだったかもしれない。
それでも君は、こうして俺の所に戻ってきてくれた。
ありがとう。本当にありがとう。
君に感謝してもしきれない」
彼の顔が近付く。
至近距離で見つめ合う。
「好きだ。愛してる。かほり。
遅くなってごめん。逃げてごめん。
これからは、ちゃんと君と向き合うから」
「…はい」
掠れた声だったけど、私はなんとか答えた。
私の返事を聞いてにこりと笑った彼の目尻に、涙が浮かんでいる。
ああ、彼はいっぱい苦しんだんだなと思った。
「圭一さん。私もあなたが好き。愛してる。
もう、どうか苦しまないで」
彼を安心させたくて、目尻についた涙を指で拭って舐めた。
しょっぱくて、甘い。
「かほり…君は一体どこまで魅力的な人なんだ…?」
彼の目が男の目に変わる。
私は目を閉じて、彼を受け入れた。
また始まる、貪りあうキス。
「け、圭一さん、あの…んっ」
「ん?なに?」
どれくらいそうしていただろうか。
圭一さんは一向に私を離そうとしない。
唾液が漏れ出しベタベタするし、唇はじんじんと痺れてきたし、あろう事か彼の手は私の背中に直に触れ、さわさわと動かしている。
「ご、はんを…ふっんっ…たべなきゃ…」
「…こんな状況で、そんな事言う?」
やっと私の唇を解放し、彼がおでことおでこを付き合わす。
そして熱のこもった瞳でじっと見つめられた。
扇情的な彼の顔ってこうなんだと、ぼうっとした頭で思う。
「今すぐ、君が欲しい」
「ご、ご飯を、食べてから…」
ずっと待ち望んでたくせに、いざこういう雰囲気になると急に恥ずかしくなった。自分からあんなキスしといて。
「だめ」
「っきゃ!?」
しかし彼は問答無用で私を横抱きすると、スタスタと彼の部屋に連れて行き、すぐに私を両手でシーツに縫い付けた。
そしてまた始まるキスの応酬。
「ご飯は、後で。
また一緒に作ろう」
どうやらこれはもう、逃げる余地はない様だ。
覚悟を決めて、私はかろうじて小さく頷く。
彼は微笑みながら、私の服に手をかけた。
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