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第10章 平和な日
来客も少なくいつになく気持ちのいい東中銀行広小路支店。
午前中も平和に過ぎた、きっとこの後も起きない。何も問題はない。
冴木という男が、実像になって現れた喫茶店以来、彩子の心は混乱していた。
夜にネットで「心の病、別人格」を調べると、『解離性同一症(多重人格障害)』と出てくる。「別の人格、声、記憶などが突然現れ、普段は絶対しないようなこと、職場で突然、同僚や上司を怒鳴りつけたり、暴力を振るったりすることもある」という。原因は子供の頃の体験や、日常的なストレスなど様々。
不安しかない。
でも、その後彩子の前に冴木は現れていなかった。
あくまでも突発的な事故的なことだと思いたい。あの日は、とにかく疲れていたのだろう。
体の疲れは、筋肉痛などで自覚できても、脳の疲労は気づきにくいと聞いたことがある。先月末から緊張するイレギュラーな仕事が多く、ストレスを溜め込んでいたのかも知れない。
今日の仕事は予定していたスケジュールの範囲内で進んでいる。気分も落ち着き、リラックスしていられる。
そういえば、課長から急な仕事を振られることもなくなった。
窓口で不正送金目的の口座開設を力技で阻止したことで、彩子は管理職達から、取り扱い注意の人物になったようだ。
やったことは、言い訳しようがない。
まぁ、その影響か、彩子が担務するテラー達へのあたりも柔らかくなった。
これはいい兆候だ、このまま続けば良い。
休憩の時間になり、川島由奈と交代に休憩室でお弁当を食べる。久しぶりに後輩の渋井美南と一緒になったが、挨拶程度で会話は弾まない。横浜のお嬢様大学を出て、父親は自営業社長で取引先、銀行勤めを長くするつもりのないタイプで、面倒には巻き込まれたくないと思っているのか、窓口事件以来、美南は彩子を遠ざけるような感じがする。
洗面所に寄って、ちょっと早めに窓口に戻った。
「彩子さんまだ休憩時間ありますよ」
窓口の亜香里が話しかける。
「今日は余裕あるから、早めに仕事を終えて帰ろうかと思って」
「いいですね」
手間のかかりそうな手形の処理を早めにしようと考えた。
いつもより空いているフロアの一角で、案内係の村田さんの声がした。定年退職後に嘱託で、来客の案内係をしてくれている。案内係をしているおじさんの多くは、昔の銀行員らしく融通の効かない人が多いが、村田さんは明るい性格で冗談好きで、お客さんからの評判も良い。
その村田さんが、ATMコーナーでシルバーヘアの小柄なおばあちゃんと話しながら、困った顔をしていた。
カウンターをチラチラ見ながら、助けを求めている。
と言って、こちら側からもわざわざ窓口まで様子を見に行く人もいない。
トラブルはなるべく現場で解決せよ、爆弾は抱えた者がどうにかする。と言うのが銀行の暗黙の了解事項で、細かな事を相談していると使えないヤツと言われる。報告しないでトラブルになったらなったで、「勝手に抱えるな、報告しろ」と怒られる。
一度怒られるか、二度怒られるかの違いしかない。そんなことは熟知しているベテラン銀行員の村田さんは、休憩から早く戻って来た彩子を見逃すわけがない。ゆっくり営業窓口に近づいてきた。
「あのぉ、奥田さんちょっといい」
予感はしていたが、村田が彩子を指名した。面倒なことに巻き込まれたくないと思っていた、他の行員たちはホッとした空気が流れた。
「こちらのお客さんが、百万円をお孫さんに至急振り込みたいとおっしゃってまして」とロビーのソファに腰掛ける先ほどのおばあちゃんの方を見る。
「ATMの一日の振り込み上限は五十万円なので、お孫さんに良く確認されて振り込まれてはいかがでしょうかとお話したんですが、どうしても今振り込みたいとおっしゃるもので……」
その言葉は彩子にとって、爆弾をオブラートに包んでそっと渡されたようなものだ。
「村田さん、それってやっぱりアレなやつじゃないですか」
彩子は銀行内なので言葉を選びつつ村田に返した。
高齢者を狙った特殊詐欺は減らない。ネットバンクを使用しない高齢者には、いまだに振込み詐欺を仕掛け続ける。村田さんら案内係は、警察防犯課の指導を受けて、高齢者の高額振り込みには常に注意を払っている。ATMで新規の振り込みに不慣れな資産家の奥さんの挙動はすぐにわかったはず。
「やっぱりそうですよね。私もお子さんや、お孫さんに、もう一度確認とられてから振り込みされた方が安全ですよ。とお伝えしているんですが、どうしてもっておっしゃって」と村田は気弱な事をいう。「これ以上は私どもでは強制することもできず……」とまた問題の客のところに戻っていった。
「早くして下さい。こっちはこまってるのよ」おばあちゃんの声が聞こえる。
ソファーに座るおばあちゃんは、七十才を越えてそうだが、背筋もピンとして表情は頑固そうで、ボケているようには見えない。
戻ってきた村田さんは、振り込み先記入済み用紙をお盆の上に載せてた。カード以外に、通帳とハンコも持参していたのか、取りに帰るという策も消えた。おまけに、用紙を見ると振込先の口座名も苗字が違う。
「迷惑をかけた相手先の口座らしいんだけど……」
村田さんも分かっていながら、案内係の権限では無理という表情。
だんだん頭が痛くなってくる。
「もう、これクロ確やな」
えっ、今誰が言った。
彩子の口が勝手に動いた。私の中に、またあの男が現れた。
「分かって、これ任せろ。おっちゃんは、自分の仕事しといて」
お盆を持って彩子はカウンターに戻った。言葉だけでなく、体の自由も奪われている。
不思議な顔をして村田さんは、持ち場にへ戻っていった。
自席に戻ると彩子は机に前のめりに伏せった。
「ちょっと、勝手なことしないでくれる」
彩子は頭の中の男、冴木に言った。
「しゃあないやろ、振込をして引き出されたら終わりや。口座貸した奴から、本丸にたどり着くのは無理やで、年寄り喰い物にする、こういう外道が一番ムカつくねん」
「もう、そういうのいいから、出て来ないで」
「でも、オレも親切心で言ってんねんで、こういう外道のやり口はヤクザに任せとけ」
「そんな事、私の方で対応するから引っ込んで」
「奥田さん大丈夫?」
隣のデスクから心配そうな由奈の声がした。
「えっ、あぁ大丈夫気にしないで」
彩子の頭痛と体の緊張が急に解けた。
「でも、何か急に関西弁でブツブツ言ってたわよ」
「ごめん、あの、自己暗示でちょっと映画のセリフを言っただけ」
「何かヤクザがどうのとか言ってたけど、そういう映画?」
「うん、そうそう。ごめんまた今度説明するから」
彩子は何とかその場をやり過ごしたが、目の前の振込用紙と詐欺直前のおばあちゃんは居なくならない。
もう一回、説得するか。
お盆を持って、彩子はカウンターを出た。
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